超くだらないことで恐縮なのですが、先日ワイヤレスイヤホンをなくしました。
駅員さんに調べてもらってもなしのつぶて。
イヤホンをなくすまで、街を歩くときはYumeji’s themeを聴いて花様年華ごっこをしていたのですが、なんだかこの音楽が流れるだけでドラマチックな気分になりますよ。
詩人のアーサー・ビナード氏はとあるインタビューで、彼は携帯電話を持ったことがなく、広告であふれている電車の中も嫌悪していて、そして携帯を持たないことは一種の抵抗だと言っていた。確かにすべてに広告が付随してきて気分が悪いし、Youtubeもお金を払えば数十秒間見たくもない広告を見せられることから逃れられる。
実際イヤホンをつけて外出するのは危ないし、目の前にある物事への感覚を遮断して自分だけの世界に没入する独りよがりな行為だと思う。イヤホンをなくす前はよくやってる(た)けど。
読書や映像の視聴だって、ある種現実逃避なわけですが、歩きながら音楽を聴くというのは、実際はそこらへんの道路を歩いているのに頭はそこにない状態に行くので、その辺りの違いが重要なのかな。
もう二度とイヤホンを落としたくないので、しばらく買わないで過ごすことにします。
カテゴリー: 2020年12月
「人と思想 マリア」(吉山登著,清水書院 1998年2月25日)の表紙で、著者はこう言っている。
「人類の歴史の中で、イエスの母マリアほど、あらゆる時代、あらゆる民族の中で愛された女性はいないのではないかと思う。もちろんそれは、マリアの子どもイエス=キリストへの愛が、人々を母マリアにも愛着させるのである。だがマリアの場合、親子関係が同時に救い主なる神と救われるべき人間の一人という、救いの恵みの関係にある。したがってイエスの母マリアには、イエスの母としての敬愛以上に救いの恵みに満たされた者に対する敬愛があり、イエスの救いの尊さに目覚める人が増えるにつれて、イエスの母マリアに対する崇敬が高まっていくのである。」
さて、アイルランドの小説家、コルム・トビーンによる作品で「マリアが語り遺したこと」(原題:The Testament of Mary)が新潮クレストブックスから出ています。これはもともと芝居の脚本で、一人で演じるものらしいのでモノローグがかなり多いのですが、イエスの弟子たちがマリアに対してマンスプレイニングしているところや、新興カルト教団のリーダーになった挙句処刑され、自身も追われる身になったことを本当にわけがわからない状況として描いています。一貫して、マリアは普通の人間で、息子を心配し、いわゆる「聖母」のイメージにはそぐわない物語であることは間違いないでしょう。ローマ・カトリックを信じる人々からは猛バッシングを受け、いろんなレビューを読んでいるうちにこういう記事を見つけました。面白い箇所は記事の下の方にあるこのパラグラフです。
It is not Mary’s unorthodoxy that troubles me. Toíbín is trying to deconstruct the images of the passive, bloodless Mary that dominated pietistic art of the 19th and 20th centuries; and I, along with most of his readers, welcome that corrective. What troubles me about his Mary is that she is a coward. After her son is nailed to the cross—a scene described in agonizing detail—Mary runs away. She runs away because she cannot help him, because she is afraid and (here is the hardest part to swallow) because she wants to save her own skin.
Toíbín sins here against Scripture and tradition, yes, but also against the more universal code of Motherlove—that irresistible compulsion that drives a mother to protect her child at any cost. Motherlove is the deep knowledge that you would stand between a killer and your child and take a bullet in the face, that you would dive in front of a runaway train to shove your child off the track, that you would part with your own heart if your child needed it and that you would do this gladly. The inventions of tradition and bad art have provided us with too many impossible Marys who bear no relation to us. Do we need another? Toíbín denies Mary what makes her most human, sinning at last against the law of verisimilitude, and giving us one more Mary we cannot believe in.
(“The Trouble with ‘The Testament of Mary’ by Angela Alaimo O’Donnell, May 02, 2013より引用。ただし太字は筆者による)
The more universal code of Motherloveとは大きく出たな。たぶんこのサイトははっきりとした宗教色はないと思うのですが、他のローマ・カトリック色を出しているウェブメディアでは思いっきりEvilとか言われていたのだけど、そういうやり方ではなく、こっち路線で批判していくのか、と。まあでももしかしたら、旧約聖書のレビ記で大罪として指定されている子殺し(人工妊娠中絶への反対運動も結局ここに行きつくのかな)を間接的にやっているとでも思っているのかな。いろいろ検索しているうちに『母性愛という制度――子殺しと中絶のポリティクス』
(田間 泰子,2001年8月20日,勁草書房)というどんぴしゃな本を見つけたので図書館で読んでみようと思います。
1997年12月24日は「少女革命ウテナ」の最終話が放送された日です。
シリーズ構成は榎戸洋司(アニメ「桜蘭高校ホスト部」なども担当)で、話の組み立て方はもちろんのこと、話を追うごとに夜が長くなっていく季節の移り変わりまで気を配られている稀有な女児向け(?)アニメではないでしょうか。
Netflixでの配信は来年の1月11日までらしいので、ブルーレイを買おうと思います。そもそも再生機器を持ってないので、プレイヤーを買わないといけないのですが……。
私の周りの人間はこのアニメが好きな人が多い。かくいう私も2017年の20周年記念の展示には行った。暁生の車の上に載って写真を撮ることができたり、デュエルへの招待状がロッカーに貼られているのを再現していたりしましたが、同行者もいなかったので、ろくな写真は撮れなかった。展示の最後で、ウテナがアンシーを棺から救い出す大詰めのシーンがまあまあ大きいスクリーンでエンドレス再生されていたのが印象的でした。「へめみやああああああ!!」と川上とも子ボイスで叫んでいるのをあれだけの回数見られる場所は今後なさそうでした。
「少女革命ウテナ脚本集 下 薔薇の刻印」(榎戸洋司著、1998年4月 アニメージュ文庫)を引っ張り出して、39話「いつか一緒に輝いて」を読み直す。ちなみにこれは7話分の脚本しか収録されておらず、第3部の鳳暁生編から25話、26話、30話を、第4部の黙示録編から34話、37話、38話、39話だけがより抜かれています。
あとがきで榎戸氏が語っていたことが面白かったので以下引用。
理想だけで現実は渡っていけないことを認めるのに、ずいぶん時間のかかってしまう人はいる。現実を知らない(認めない)言葉だけで、世界を語りつくせるのではないかと。
大人は汚い、とかいうのは簡単だ。
けれど、手を汚すことを自覚する魂が、人間性の豊かさに深く関係しているのも確かだ。
そして描くべきもの――セクシャリティと人間性は、不可分にしてひとつである。
だが――
現実を超える理想が現れたとき、そこに革命が起こる。
だから僕たちは、天上ウテナという少女を描いた。
勝てるわけがないと知りつつ、彼女に戦い抜いてほしいと思った。
ウテナはアンシーのすべてを受け入れた。
おそらくこのキリストは、鶏が鳴く前に、アンシーが三度ウテナを知らないと言うことを知っていたのだろう。
大人の汚さを嫌う安易さに比べて自身がそれに染まらずにいるのは難しい。同様に、人を好きになるのは簡単だが、裏切った人を許すのは難しい。
主人公のウテナ以上に、世界の果て/暁生を描くことの子細にこだわった意味は、今日という日に、僕たちが認識すべき鏡像だからである。(p.186 あとがきより)
理想だけを見続けていまある世界を認めない、という態度をとってしまうことは身に覚えのないことだと言えば嘘になる。誰しもそういうことはあるんじゃないかと思う。そうしたときに、そのまま目をつぶったままで居続けるのか、ウテナと最終話以降のアンシーのように「手を汚すことを自覚する魂」を持つことができるかで、大きく違いが生まれるだろう。暁生がクズだといって他者化することも簡単だ。彼のように肩書だけを追い求め人を踏みつけにし続けること確かによくないことだけど、自分はいったいどうなんだ、と振り返ってみなければならないのだろう。また、「少女革命ウテナ」はすぐれた作品だし、独特の演出はある種の信者を産みやすいのもわかる。その舞台の描写や、鳳学園の美しい墓(ピンドラは『美しい棺』でしたね)に耽溺するファンがいるのもうなずける。自分がそうではないとは言い切れないのが恐ろしいところ。
卵の殻を破らねば、雛鳥は生まれずに死んでいく。我らが雛で、卵は世界だ。世界の殻を破らねば、我らは生まれずに死んでいく。世界の殻を破壊せよ。世界を革命するために。
何度も繰り返されるこの言葉を胸に、学園を去るアンシーの背を追うことが私たちにできるでしょうか。
とりあえず年末は実家のピアノで「光さす庭」でも弾いてみようと思います。
シスターグラシアは、私が通っていた女子校の教頭の名前そのままである。ことあるごとに全ての人々は平等であると説く人だった。たしかにあのときあの世界は平等だった。私たちは数年経てば平等ではない世界に放り出されるが、シスターグラシアは永遠に平等な世界に生きている。(p.122「昼飯の角度 脚本家 大島多恵子」『帝国の女』宮木あや子,2018年6月20日,光文社文庫)
この話の主人公が通っていた学校はカトリックのようだが、「すべての人は平等である」こうした教えを欺瞞だと言い切ることができるほど醒められていない。たしかにあそこにいた教員たちは、川の底に残された石のように入れ替わることもなく、ただ6年間のスパンで卒業してゆく生徒たちを見送ることしかできない。それであるなら、その場だけでも夢見させん、と温室を整えきれいごとを説くのと、外の世界は平等じゃないと常に厳しく(?)教えることとどちらがマシなのだろうか。
アリ・アスター監督の「ミッドサマー」はスウェーデンのホルガ村という架空の場所を舞台にしたホラー映画だ。
あらすじ他は有名すぎるのでここでは割愛。
ヒロインのダニが彼氏のクリスチャン(!)の浮気を目撃して号泣するシーンで、ホルガ村の女たちはダニと共に泣く。クリスチャンが村の娘と番う(Mateという単語を使われていたので、本当に動物の雄と雌の交接としか扱われていないと考えあえてこの動詞を使います)ときも彼らの周りを裸の女たちが取り囲み、全員でその場を共有していた。
たぶんとても奇妙なシーンだと思う。
ところで、私はキリスト者しか教師になれないミッションスクールに通っていたのだけど、そこでは毎年泊りがけで修養会(英語ではリトリート)が行われていた。だいたい偉い牧師の話を聞いてみんなで感想を言いあったり牧師に質問したりするイベントだと思ってもらえればいい。正式には、日常生活から退却して(Retreatという単語本来の意味)キリスト教の信仰をきちんと考えようといった感じなのかな。
たぶん中学3年生のころ、修養会のなかで生徒の中から受洗者を壇上に立たせ「証」と称するキリスト者が人生の経験を共有するような場がもたれた。生徒A、生徒Bとなぜかみな辛い経験を語らされていたのだけれども、涙でつっかえながら話を続ける生徒を見ながらすすり泣く声が聞こえてきたり、応援する声が聞こえてきたりと、会場は独特の一体感に包まれていた。私はいつも一体感とか言い出すイベントごとがうんざりだったし、牧師の「お話」の最中もずっと寝ていたのでどうにも盛り上がれなかった。その子たちのことや、周りの生徒が嫌いなわけではない。でもその場で感じた居心地の悪さは、事あるごとに顔をのぞかせた。
「ミッドサマー」で描かれたカルト宗教は極端に戯画化されているものの、現実世界に存在する無数の「そういう場」を表現しているのではないかと感じた。この映画を見ることで生み出される「こいつらヤバい」という空気すらメタく認知すれば同じようなものなのかとも。カルトとみなされる側にいるかそうでないかの違いでしかない。今後どっちに行くかわからないけれど、できれば自分が呼吸しやすい場所で生きられますように。
引き続き学生の頃の手帳を見ていたらうわーって感じの行動をしている一日があった。
教文館→シャネル→マリアの心臓という移動経路。
そのときシャネルではサラ・ムーンの展示をやっていて、しかも無料だったので何度か足を運びました。
たぶん松屋銀座のトムフォードで買い物して帰るのが鉄板でした。
しかしマリアの心臓も閉館してしまった。いったん入場したらかなり長居していたのですが貴重な体験だったな。銀座一丁目駅から近かったのですが採算とかとれなさそうではあったし……。
最近いいと思ったのはTHE GINZAとセルジュルタンスが同居する資生堂の新しいビル。
でももう寒すぎて外出できません。
部屋を掃除していたら、探していた昔の手帳を見つけた。意外ときちんと書いていたんだけど、「△△先生と面談」という予定について、その人が誰だったか全く思い出せなかった。たぶん常勤の先生じゃなかったんだと思うけど。たぶんそのときドイツ神学の授業を受けていたので、色々メモしていたのが面白かった。
1.歴史は、あらゆる神学体系が構築される基盤としての情報を開示することができないという信念
2.神とはどのようなものであるかについてあらかじめ決定する理性の能力への信頼
3.完全なる神は苦しむことができないという信念
J.モルトマン、E.ユンゲルによる啓蒙主義への3つの疑問(A.E.マクグラス『歴史のイエスと信仰のキリスト』キリスト新聞社、2011年)
なんか神学に関する本ってどうしても重くて分厚くて何書いてあるかわからないしドイツ語も読めないっていう状態になると思う(そもそもキリスト教になんて誰も興味がないのでしょう)けど面白いので読んでみてほしい。むしろ無意識下で欧米諸国にいた作者が何を考えていたのか、何に影響を受けたのかを探るうえでキリスト教について知ることは必須だと思う。特に海外文学とかファンタジイとか好きならちょっとくらい興味を示してくれないものかな。だいたいそういうときに自らを「無宗教」と言い切ることができるその無自覚さを羨ましく思うこともありますが。
エホバいひたまふ、エフライムは我愛するところの子悦ぶところの子ならずや 我彼にむかひてかたるごとに彼を念はざるを得ず 是をもて我膓かれの爲に痛む 我必ず彼を恤むべし(エレミヤ書31章20節)たぶん新共同訳の旧約だとp.1236に同じ箇所がある
キリスト教の神がいうところの赦罪の動機みたいですが……。
私はクリスチャンではないので、とりあえずこういう理由なのかもなと思う程度にとどめておきます。
Megan Thee Stallion(WAPでCardi Bとコラボしているラッパー。博士課程在籍中)の新曲も可愛いです。
John Willieが描くところの拘束された女性を彷彿とさせるフェティッシュな感じがする。あとのスタイリングはちょっと文脈を知らな過ぎて評価しにくいのですが、目隠しのやつはDita Von Teeseなんかも着られそう。どちらかというとドラァグクイーンの衣装のそれに近いような気もするけど。このPVで共演しているモデル、Blac ChynaはRPDRのSeason9、Nina Bo’nina Brownの一件で妙にいじられていて知った。
LiSAが歌う「炎」がApple Musicの全世界チャートで7位に入ったと、いつだかテレビでやっていたんだけど……。
ずーっと1位なのはCardi Bの「WAP」で、それも映ってたけど当然スルーされていた。
歌詞はやばすぎるので翻訳しません。WAPじたいがWet Ass Pussyの略ということから察してほしい。
けっこうヘビーローテーションしてます。ずーっと流れているThere’s some whores in this house.という文章が頭から離れなくなる。まあずっと前から流行していてTikTokで家族に聞かせてみてリアクションを見る動画とかがYoutubeに転載されている。英語を理解する家族にしかできないことですが。
週刊少年ジャンプの招かれざる客である私ですが漫画が大好きで今迷っていることがあります。
以下の漫画のどれを大人買いするかということです。
BEASTARS(板垣巴留著、秋田書店)はkindleで揃えたんですが……。
・『闇金ウシジマくん』(真鍋昌平著、小学館)
→完結済み、全46巻、新品で揃えた場合約2万8千円。あと読んだら気持ちが落ち込むから家に置きたくない。
・『HUNTER×HUNTER』(冨樫義博著、集英社)
→完結してないしする気配もない。既刊36巻、新品揃えた場合約1万8千円。休載している間に鬼滅の刃が完結しましたが……。いちおう初期はちょっと掲載がかぶってたのかな?
・『チェンソーマン』(藤本タツキ著、集英社)
→第1部が今週終わったのかな? 既刊10巻、だいたい5000円あればわかる。続編がジャンプ+(ジャンプラ)で連載なのが面倒くさいというか本誌でやってくれと思う……。SQもそうなんだけどああいう増刊号とか本誌から分派した何かが大量にある雑誌は忘れる。これは自分の頭の問題。
・『呪術廻戦』(芥見下々著、集英社)
→既刊13巻、どんどん盛り上がってる感じ。だいたい7000円あれば買えるかな? ポスト鬼滅とか言われてるけど実際どうなんだ。
あとは森薫『乙嫁語り』の買ってない巻がどれかわからなくて(実家に置いてあるため何巻まで買っているかいつも忘れる)読めていないのでそれを追いかけたい。
私、漫画で次に流行するものを見抜くセンスは特にないので『鬼滅の刃』は『サムライうさぎ』とか『保健室の死神』みたいに、ジャンプ好きで読んでるひねた人間には愛されるけどマスに受けるものじゃなさそうと思ってた。けど、流行していて驚く。
『鬼滅の刃』はみんなどう思っているかは知らないけど作者は確実に人体損壊描写をやりたいがために鬼っていう存在をボコボコにしてるだろ、と思ってます。劇場版で敵の鬼が「お前も鬼にならないか?」と、若く強く美しい見方役のキャラクターを勧誘するんですが、鬼は作者の思いを代弁している感情が漏れ出ているように感じられてならなかった。
「素晴らしき才能を持つ者が醜く衰えてゆく 俺はつらい耐えられない 死んでくれ杏寿郎 若く強いまま」(「鬼滅の刃」63話)
「死ぬ…!!死んでしまうぞ杏寿郎!鬼になれ!!鬼になると言え!!」(同上、64話)
若く強いままでいられない姿を見ているのがつらいから自分の手で殺すんだってセリフをCV石田彰でやるって趣味悪いなー(褒めてます)。あんなふうな殺し合いや、若い男が若い男を嬲り殺す一連の流れが収録されている映画が興行収入300億円以上なんだから、アーバンギャルドじゃないけど「日本は、病気」だと思う。まあもともと一位で居続けた『千と千尋の神隠し』自体、湯屋という場所で働くことになる10歳の少女という何とも言えない設定なのを考えればそんなものなのかな。
『鬼滅の刃劇場版 無限列車編』を一緒に見に行った友人(おたくではない)はボロボロ泣いてデトックスになったから仕事頑張れるわーと言っていたので、そういう見方はしないのが「普通」というやつでしょうか。