最近買った本。
・少年イン・ザ・フッド(SITE, Ghetto Hollywood, 扶桑社,2020.9.1)
Instagramの@ghettohollywoodが描いている漫画。90’sのサブカル小ネタが多かったりキャラクター自体が別の漫画のパロディだったりする。最近こういう自己言及的なもの多いというか、メタフィクションと言えばいいのか、作中で語られること以上のものがリファレンスされているものが目につく。
・フェミニズムはみんなのもの 情熱の政治学(bell hooks, 堀田碧訳,エトセトラブックス,2020.8.14)
装丁が書店で埋もれてしまう感じで気に入らない。なんか河出書房新社とか最果タヒの詩集とかとりあえず「ああいう系」にしておけばいいや、みたいな。Amazonに書影がありますが、なんで顔じゃだめなの?他社だけど、ルシア・ベルリンの本は著者の写真がドーンと載っている表紙にしたのに?
内容読めばわかるし、ベル・フックス自身の他の著書でも、白人中産階級のフェミニズム(ベティ・フリーダンみたいな)がメインだった場で、ベル・フックスとかオードリー・ロードが色々言ったことを無視しないで都合のいいところだけ切り出して援用するような使い方に思えてしかたない。文脈の無視。
・明日、私は誰かの彼女(をの ひなお,小学館)
サイコミで読むのが嫌というかあまり得意ではないのでKindleで単行本を買った。なんかいろんな服装の再現性は高いし見てて面白いけどどことなくテンポが悪いのと画面が白い(トーンとかベタがない)気がする。歌舞伎町編早く出してください。
あとkindle unlimitedや無料公開のときに「烏に単は似合わない」を読んだんだけど、盛大なネタバレをするのでそれでもいい場合は読み進めてください。
要するに叙述トリックで主人公が無意識のうちに人を傷つけまくっていた的な話です。本物のヒロインである浜木綿という名前の蓮っ葉でお妃候補にはとても思えない女性が幼馴染の「帝」に謎解きをさせて、帝には結婚してくれって言われて、語り手である偽ヒロインあこぎは下男との間の不義の子かつ茶髪でくるくるの巻き髪で、平安時代のパロディである舞台における美的感覚には沿わないらしい。そして浜木綿さんは苦労はしたけど正当性のある血統をお持ちで、とてもそういうふうには思えない、貴族としては型破りな行動ばっかりするけどお嬢様で、洞察力もあって、人も慕ってくれて、身分の高い男も手に入れる。
最近オタク向けに多いよね、こういうの。でもこの本めっちゃ売れてるんですよね。身分制度肯定かつ血縁関係重視&不倫で生まれた子供は性格がねじ曲がっているという偏見をそのまま物語にした感じがあってなんというかとってもモヤモヤしました。
勧善懲悪するなら生まれの話とかしないでほしいというか、「自分は相手よりすべての点で優れている」と思いたい読者のためのサービスですか?と思うような内容だった。
カテゴリー: 2020年9月
Booksmart(2019)を見たので、最近Netflixで配信が始まったLady Bird(2017)も見ました。
ティモシー・シャラメ演じるKyleのキャラがよかった。いつも本読んでるけど絶対内容わかってないと思う。
Booksmartは2019年が舞台なのでやっぱりそれに見合った価値観のアップデートが行われた良作です。
いろいろ頑張ってるけど人種的多様性についてはまだ努力の余地ありかも。女子二人が冒険するのも、単純なスクールカーストの話にならないのも良いんだけど。でもこれって映画の内容そのものというよりは、アメリカの映画業界の構造そのものの問題かもしれない。
MollyとAmyのコンビはフェミニストなんですが、お互いどういうことが好きなのか違いがあって、フェミニストは一枚岩ではないことが仄めかされていたんじゃないでしょうか。映画内の小ネタは知ってないとわからないっていうことが欠点でもあり良い点でもあるのかな。MollyのほうはRuth Bader Ginsburgの写真を家に飾っていて、連邦最高裁判事に最年少で指名されたいらしい。Amyはどちらかといえば文学が好きで、自分の部屋のドアに” A Room Of One’s Own”と書いた紙を貼っている。言わずもがなヴァージニア・ウルフの「自分ひとりの部屋」を意識している。
こないだまた映画館で見たんだけど、Blu-rayが出たら買います。高校生の頃、「グランド・ブダペスト・ホテル」とか「タイピスト!」とか、「天才スピヴェット」とかを見て、なんていうか山崎まどか的な外国へのほんのりとした憧れを作り出してくれる映画が好きだったから、リアル10代のときにこの映画を視聴していたらどうなっていただろう……。
でも、過去を振り返るよりこの先どんどん新しくて面白い作品に触れることを目指そう。高校生の頃より今のほうがずっと楽しいし。好きな服を買えるし。
母の誕生日だった。あとそういえばALI PROJECTのボーカル宝野アリカ様の誕生日でもある。
小学生の私を狂わせた人と同じ誕生日とかなんだかなーと昔からずっと思っていた。(そんなことは変えられないのでしょうがないのですが)
Psychedelic Insanityがリリースされたときのイベントに行ったのですが彼女が名古屋ってどこの県にある?と言っていたことが衝撃的すぎて後のことをあまり覚えていません。きっと俗世間のことなんて興味ないですよね!
大人になったらドールを買おうと思っていたけど結局まだ買えていない。
人生ゲーム2016年版を家電量販店で購入した。
友人と遊んだら45分くらいで終わってしまった。もっと2時間くらいかからなかったっけ? 6人とかで遊んだら時間がかかるのかな?
人生ゲームのスタート地点で何歳なのかは明確ではないが、コースの中で子供を産むチャンスは3マスだけだった。職業選択するマスにも止まれなくて、フリーターのままでゲームを進めることになった。子供はいない。
ただ、「絶対に止まらないといけないマス」で結婚イベントがある。相手の性別は明確にはされないけど。
というわけで、「これはプロパガンダゲームだ!強制的異性愛(アドリエンヌ・リッチの論文に出てたけどこの用語って別にリッチが作ったわけではなかったような)と家父長制を肯定する価値観を植え付けることを目的に作られている」とか騒いでいました。
タカラトミー的価値観では一番多くお金を持っていた人が勝ちなんだって。
大富豪のローカルルールみたいに闇人生ゲームを作っても面白いかも? でもそれって現実世界?
こうの史代のアイロニカルな表現が無視されていないか気になっています。
「この世界の片隅に」はBLACK LAGOONなどをアニメ化した片淵監督によって素晴らしいアニメになったのは疑うべくもないが、すずの「代用品」に対する態度とか、北條家の人々の無神経な態度とか、こうの史代による漫画だとものすごくわかる(それもかなり微妙な機敏が表現されている)のだけど映画だとどちらかというとストーリーラインと原爆の悲劇性に寄っているというか。もちろん尺に収めるためいろんなメッセージを詰めすぎると取っ散らかるということは頭では理解できるのだ。
気になっているのは、何を取捨選択するかという制作側の意図はどういう風に作られているのか、忖度対象は何なのか。
もっと言うとこういう形になったのも、「正典」(Canon)になるため? と思ったり。
普遍性とはいったい誰のためのものなのか。
歌劇を見ているとやっぱりそれなりに時代に合わせて進化はさせている(つもり)んだよね、とは思う。
退化しているんじゃないかって部分もあるけど。
まだその一座の中で経験を積んだ人間しか主役ができない、というシステムを採用しているだけ東宝の芸能人ありきキャスティングよりいくらかマシに思えます。
私は2012年から2016年ごろが一番多く舞台に行ってましたが大学を経てチケットを確保する気力もなく、最近あんまり行ってません。美輪明宏が元気なうちに卒塔婆小町を観に行っておけばよかった。あと、一番生で見たかったーと思うのはオギーがやった『タランテラ!』(2006年・雪組)と、稲葉くん作・演出の『インフィニティ』(2012年・雪組、宝塚バウホール公演)です。
これらがなんですごいかは割と長くなるので後日話します。
オギーのキーワードは、一生結ばれない、一緒にいると不幸になる二人ですかね。
舞台芸術好きなのに気軽に見に行けないものになってきているのでテンションが下がっています。19日の望海風斗のコンサート実況でちょっと持ち直した感じはあるけど。
というわけでブルーレイやDVDを視聴する環境を整えるために機器を物色中。あと炊飯器がないので、何がいいのか探してます。
あんまり関係ないのですが最近久々に同人誌を買って、水上文さんの「永遠だ、海と溶け合う太陽だ。 特集女と人生」と山本白湯さんの「かわいい女まとめ」の二つを選びました。趣味が合う人募集中です。
山本白湯さん、商業誌で見たいなー。「濃紫の葡萄」の二人が特にお気に入りです。
望海風斗卒業コンサートの中継を見た。
やっぱり斎藤吉正とは相性が合わない。悪乗りする男ヲタそのものって感じ。
あと個人的に軍服っぽい服が全然好きじゃないんだけど、サイトーは割とそのへんの倫理観がすこーんと抜けているところがあってそこも嫌だった。SSっぽい衣装とかさ……。
だけどTwitterで実況してる(比較的)若い宝塚ファンが「セトリが婆向け」という意見にもうなずけない。
なぜならお金をメインで使ってきた層や、経済力があるファンとか、数十年レベルで応援してきたファンに対して忖度するのは宝塚歌劇団にとっては当然だろうし、そもそもインターネットで発信してる層よりもっとコアな人(オフラインでのファン活動、それぞれのタカラジェンヌのファンクラブの会員たちのほうがまだまだメインだと思います)を喜ばせるのがメインのお祭り騒ぎみたいなものだ。特に退団前のコンサートなんて、少なくとも、本当に最小でも、一公演30万円くらいはつかうようなファンが喜べばそれでいいのであって、Twitterで「推しの顔がよい」と言っているファンは目には入るけど、お金にならないのならさ……。
オギー×だいもんだったらどうだろうなあ、と思わなくもないのですが。
しかし、だいもんが天海祐希さんが演じたビルの曲(ミーマイ)をやったのはすごくよかったですね。
白服補正(退団者は全身白で入りをしたり、退団っぽいシーンでは白い衣装を着たりする)がないと言えば嘘になりますね。
あと「私が躍る時」でだいもんトートとまあやシシィが見られたのもとりあえずやりたいことをやった感はある。
そして白服→ピンク(花組の組カラー)で雪組子が登場するのも、だいもんがピンク色のスーツ着てるのも。髪色も若干ピンク色っぽい金髪になってた。
でもさー、客席のペンライトが緑(雪組の組カラー)なんだよ。こういうちぐはぐなところ気になる。
加えてセットリストに対して何か言うとしたら昭和歌謡コンサートになってることに対する文句というより、「タカラジェンヌ辞めたら宝塚歌劇団の歌を殆ど歌わなくなるのに、なんでポップソングばっかり歌わせるの?」という疑問のほうが大きい。座付きの人たちが芝居のために書いた曲なんて他のカンパニーにはないし、ちゃんと宝塚歌劇団の歌を歌えよという気持ちでいっぱい。まあサイトーはそういう選曲ばっかりして、昔からDVDも曲差し替え祭りだし。映像に残せないなくなるなら使わないでほしい。
「ひとかけらの勇気」(スカーレット・ピンパーネル)、「かわらぬ思い」(ブラック・ジャック)とザ・レビューⅢの歌を歌ってたけど、3曲のうち1つは海外ミュだし……。
ブラック・ジャックの歌を歌ってたときに改めて思った。やっぱりこの人は花組で育った人だ。
一幕中盤と、二幕冒頭の悪ふざけパートはファン向けのお遊びなのでノーコメント。
なぎしょ(彩凪翔)の歌が若干うまくなってて歌詞が何言ってるかわかるようになった気がする。それとも自分の耳が慣れたのか?リスニング能力の向上?劇レス通ったのかな……。
まあやは歌がうまいですよね(他に言うことないのか)。結構彼女の演技も好きだけど今回はコンサートだから。
あゆみねーさん(沙月愛奈)さんが、娘1.5くらいの目立ち方でよかった。
Violet Chachkiの “A Lot More Me”、歌詞も含めて聞いてほしい。
He gives me rhinestones, diamonds
You know I want ’em all
He likes my cake, he likes to eat it
And leaves me climbing the walls
But when I wake up in the morning
All I wanna see
Is a little less you and a lot more me (“A Lot More Me”, Violet Chachki)
この人はジョン・ウィリーが好きらしいです。フェティッシュ・ファッションとハイファッションを組み合わせたハイブリッドなルックを作り出す力があるクィーンです。Dita Von Teeseとか好きな人は絶対好きですよね。多分チャチキと趣味合うと思う。本人のYoutubeチャンネルではクローゼットの紹介してくれたり、このエピックなチャチキ・フェイスの化粧の仕方まで惜しみなく披露してくれています。
水原希子がOKハロウィンパーティーというイベントでチャチキを呼んでくれたとき、この歌をBGMに、トレンチコート(中は下着姿)を着てキラキラのルブタンを履いてエアリアルのパフォーマンスをしてくれました。
完全に余談ですがクラブの待機列に並んでいたときにちょうどチャチキが入りの時間で、列を割かれたときに目の前を通り過ぎていったことが思い出です。縁石につまずいてました。そしてヒール込みで200cmくらいあった。
あまりに遠い存在っぽいとよく忘れるけど、同じ世界で生きていて呼吸をしている人なんだなあと思うと不思議。
水原希子さん、そして今年の3月にイベントを開いてくれたVoss Eventsの責任者の方、ありがとうございました。またいつか生でパフォーマンスを観られますように。
「俳句おもしろい、 駐車場雪に土下座の跡残る(『新宿歌舞伎町俳句一家「屍派」アウトロー俳句』河出書房新社, 2017.12.15)とかいいよ」とか言っていたら親が「昔篠田節子の作品を全部読んだのだけれども、『死神』という短編集ですごい短歌が引用されていてそれに鷲掴みにされた」と言ってきた。そんな話聞いたことがない。
「鳥一羽テトラポッドに墜死する潮満ちきたれ潮にしたがえ」という歌らしい。短編集は未読なので何が良かったのかは分からないがこれから読もうと思います。
短歌は三十一音と、俳句に比べれば多いですね。それでもソネットみたいな十四行詩の形式に比べればよっぽど短いのだけど。穂村弘とか岩倉文也とか一部(Twitterや日経歌壇)で有名と思しき人しか知らないにわかですが、もっと読んでみたいなあ。高野公彦『短歌練習帳』(本阿弥書店, 2013.11.25)を読んではいるものの、作るのが一番難しいしセンスないし語彙力ないし。あと「シン・ゴジラ」が流行していた時に高橋一生演じる安田がゴジラ騒ぎで恋人を亡くしているのではないかという想定で短歌を作る二次創作がTwitter上で散見されたこともありましたね。発端はもう4年前の9月なのか。
高野公彦の本で引用されていた歌ですが、
約束は嘘だつていい冷凍庫の中で霜まみれのルームキー 山田航「さよなら、バグ・チルドレン」
特に高野公彦によっては触れられていなかったがこれは椎名林檎のイメージでは?
急に只寝息が欲しくなって冷凍庫にキーを隠したのです 椎名林檎「依存症」の歌詞
めちゃくちゃなリズムだし歌詞の一部だけど確かに三十一音か?
そういえばTwitterに偶然短歌bot(@g57577)というものがありますね。私は中学受験の時に「何文字以内で引用せよ」という国語の設問の答えを考えている時に5文字ずつテキストに傍線を引いて数えていたので文字数カウントには思い入れがあります。まあ短歌という短歌になっていないと思うけど。
『ホスト万葉集 嘘の夢 嘘の関係 嘘の酒 こんな源氏名サヨナライツカ』(講談社,2020.7.8)という本があったので読んだ。ラストソング(ホストクラブ行ったことがないのですが、その日の売上が一番だった人がラストになんか歌ったりスピーチしたりするというぼんやりした知識しかない)についての歌がよかった。
ごめんねと泣かせて俺は何様だ誰の一位に俺はなるんだ 手塚マキ
神野紗希『女の俳句』(ふらんす堂,2019.10.30)を読んでいます。俳句のなかで「女」を描いているものをメインにピックアップして作者の批評とともに紹介されていて、俳句なんてほぼ現代文の教科書で触れただけの自分でも楽しく読めます。あまり単純化することもできないけれど、ラップや和歌を詠んだときの楽しさみたいなものに似ている気がします。あと、「乳房」とか「少女」といったキーワードに沿って句が紹介されているので、高浜虚子みたいな俳人から現代の俳人の作品まで触れることができるのもおすすめなところです。まあもやもやする点もあるのですが……。
姉妹の句は、富澤赤黄男のアフォリズム「蝶はまさに<蝶>であるが、<その蝶>ではない」になぞらえれば「姉はまさに<姉>であるが、<その姉>ではない」(妹もしかり)ということができるだろう。現実の姉や妹の生態よりも、詩のモチーフとして高度に象徴化されたイメージが読解の鍵だとい点では、「姉」や「妹」という単語も、季語とそう変わりはないのである。(『女の俳句』p.37)
そしてまた<少女>という単語もそのアフォリズムになぞらえることができるだろう。表象されている<少女>はもはや現実の少女とはほとんど関係がない。そしてそれは俳句に限らず文学―Literatureの範囲にあるもの全てにおいて象徴化された理想像が描かれている。問題はそれを現実の少女や女という存在にも投影されうるという点だ。神野はまた「少女の市場的価値は非常に高い。古くは『源氏物語』の紫の上から現代のアニメ「けいおん!」まで、少女という存在は千年以上、欲望の対象だった。その特性はまず、処女であることだろうか。まだ誰のものでもない女としての少女は、理想の女性として文学にも描かれてきた。」(『女の俳句』p.12)と前置きしたうえで、西東三鬼の「白馬を少女瀆れて下りにけり」という句の説明をしている。言わずもがな、またがる、という行為の性的な意味を付与した句だ。
神野は<少女>のチャプターをこう結んでいる。「少女期というのは、すべての人にとって美しい一時の夢なのである。」(『女の俳句』p.17) すべての人とは大きく出たなと思います。まあこうやって終わりたくなる気持ちはわかります。シメの文章は難しいので聞こえの良いことを言っておけば結構楽なんです。かつて<少女>という概念に近しい年代だった現実の少女たちがあの頃をナルシシズムに浸りながら思い出すこともあるだろう。そして秋元康(こうやってタイプすることすら寒気がする)の歌詞のようにプールの授業を受ける少女たちを盗み見してマスターベーションしている男が夢見る<少女>期の夢もあるだろう。
でも、<少女>期は終わっても現実の少女は大人になる。連続性のある存在であることを、どうして覚えていられないのか。
たしかに<少女>は魅力的な存在である。ただ、現実の少女は必ずしもそうではない。そして「少女期」というものも殆ど何らかの作品でキャプチャーされない限り本人たちが自覚することもない。<少女>と<少年>の物語は常に生産され続けているけれども、真っただ中にある人間が外部からそれを掴んで文学的な意味を付与するだとか、物語としてとらえることは人間にメタ認知能力が備わっていない限り無理。
まだこの本は読みかけですが、高度に象徴化されてはいるのだけれども、現実にいる存在を模して理想化した形での表象の消費にほとほとうんざりしている私にとってはウゲーとなる句がたくさんある。そもそも俳壇自体が結社で句会をやって評価しあって、とかこの結社は誰々さんの句系でっていう形で成り立っていてかなりお堅いもので遊びがないのかなあ……。北大路翼編『アウトロー俳句』なんかだと割と目を瞠るものが多いのですが、そういったものよりも、正岡子規が言う「写生」とか高浜虚子とかがまだまだ生きている世界なんですよね。
ただすごい句もある。
牛久のスーパーCGほどの美少女歩み来しかも白服 関悦史
関悦史特集を結社誌で読んだけどテーマがBLのものがあったり性的な言葉を直截に織り込んだものがあったりしてすごかった。もっと読まれるべき。ただ私テレビ見ないので知らなかったのですが夏井いつき先生も出ているプレバトって番組に出ていたんでしょうか、サジェストに出てきたのでそう思いました。結社誌の『翻車魚』の去年11月号とか(年刊らしいけど)が関悦史特集だったので皆さん手に入れてください。
また、<ファッション>というテーマに収録されている、
羅や人悲します恋をして 鈴木真砂女
鈴木真砂女は海軍士官の青年と道ならぬ恋の結果出奔してまた夫の待つ家に戻らなければならなかったことがあるらしく、そうした経験から読まれた句だ。歌人の柳原白蓮とかもそうだけど私はこんな風に何もかも捨てて恋愛に懸けることはできないだろうなあとわかっているからこそ、真砂女の経験から絞り出された十七音に息を吞むことしかできなかった。
そしてまた鈴木真砂女の句。
唆されても水着姿になる気なし 鈴木真砂女
森薫という漫画家がいるのですがとにかく女性に病的なフェティシズムを持って描き続けています。彼女の短編集『森薫拾遺集』には新婚旅行で着た水着を押し入れから引っ張り出して着る肉感的な人妻の漫画(ただ水着を着るだけ)があるんですがそれを思い出した。こういう類想というか、何かを引き出すことができる句や歌は面白い。
詩歌ブームはいつまで続くのか。私はかなり飽きっぽいのですが、飽きてもそのうちまた思い出して「この句はいいなあ」とか「この歌ムカつく!」とか言ってると思います。