神野紗希『女の俳句』(ふらんす堂,2019.10.30)を読んでいます。俳句のなかで「女」を描いているものをメインにピックアップして作者の批評とともに紹介されていて、俳句なんてほぼ現代文の教科書で触れただけの自分でも楽しく読めます。あまり単純化することもできないけれど、ラップや和歌を詠んだときの楽しさみたいなものに似ている気がします。あと、「乳房」とか「少女」といったキーワードに沿って句が紹介されているので、高浜虚子みたいな俳人から現代の俳人の作品まで触れることができるのもおすすめなところです。まあもやもやする点もあるのですが……。
姉妹の句は、富澤赤黄男のアフォリズム「蝶はまさに<蝶>であるが、<その蝶>ではない」になぞらえれば「姉はまさに<姉>であるが、<その姉>ではない」(妹もしかり)ということができるだろう。現実の姉や妹の生態よりも、詩のモチーフとして高度に象徴化されたイメージが読解の鍵だとい点では、「姉」や「妹」という単語も、季語とそう変わりはないのである。(『女の俳句』p.37)
そしてまた<少女>という単語もそのアフォリズムになぞらえることができるだろう。表象されている<少女>はもはや現実の少女とはほとんど関係がない。そしてそれは俳句に限らず文学―Literatureの範囲にあるもの全てにおいて象徴化された理想像が描かれている。問題はそれを現実の少女や女という存在にも投影されうるという点だ。神野はまた「少女の市場的価値は非常に高い。古くは『源氏物語』の紫の上から現代のアニメ「けいおん!」まで、少女という存在は千年以上、欲望の対象だった。その特性はまず、処女であることだろうか。まだ誰のものでもない女としての少女は、理想の女性として文学にも描かれてきた。」(『女の俳句』p.12)と前置きしたうえで、西東三鬼の「白馬を少女瀆れて下りにけり」という句の説明をしている。言わずもがな、またがる、という行為の性的な意味を付与した句だ。
神野は<少女>のチャプターをこう結んでいる。「少女期というのは、すべての人にとって美しい一時の夢なのである。」(『女の俳句』p.17) すべての人とは大きく出たなと思います。まあこうやって終わりたくなる気持ちはわかります。シメの文章は難しいので聞こえの良いことを言っておけば結構楽なんです。かつて<少女>という概念に近しい年代だった現実の少女たちがあの頃をナルシシズムに浸りながら思い出すこともあるだろう。そして秋元康(こうやってタイプすることすら寒気がする)の歌詞のようにプールの授業を受ける少女たちを盗み見してマスターベーションしている男が夢見る<少女>期の夢もあるだろう。
でも、<少女>期は終わっても現実の少女は大人になる。連続性のある存在であることを、どうして覚えていられないのか。
たしかに<少女>は魅力的な存在である。ただ、現実の少女は必ずしもそうではない。そして「少女期」というものも殆ど何らかの作品でキャプチャーされない限り本人たちが自覚することもない。<少女>と<少年>の物語は常に生産され続けているけれども、真っただ中にある人間が外部からそれを掴んで文学的な意味を付与するだとか、物語としてとらえることは人間にメタ認知能力が備わっていない限り無理。
まだこの本は読みかけですが、高度に象徴化されてはいるのだけれども、現実にいる存在を模して理想化した形での表象の消費にほとほとうんざりしている私にとってはウゲーとなる句がたくさんある。そもそも俳壇自体が結社で句会をやって評価しあって、とかこの結社は誰々さんの句系でっていう形で成り立っていてかなりお堅いもので遊びがないのかなあ……。北大路翼編『アウトロー俳句』なんかだと割と目を瞠るものが多いのですが、そういったものよりも、正岡子規が言う「写生」とか高浜虚子とかがまだまだ生きている世界なんですよね。
ただすごい句もある。
牛久のスーパーCGほどの美少女歩み来しかも白服 関悦史
関悦史特集を結社誌で読んだけどテーマがBLのものがあったり性的な言葉を直截に織り込んだものがあったりしてすごかった。もっと読まれるべき。ただ私テレビ見ないので知らなかったのですが夏井いつき先生も出ているプレバトって番組に出ていたんでしょうか、サジェストに出てきたのでそう思いました。結社誌の『翻車魚』の去年11月号とか(年刊らしいけど)が関悦史特集だったので皆さん手に入れてください。
また、<ファッション>というテーマに収録されている、
羅や人悲します恋をして 鈴木真砂女
鈴木真砂女は海軍士官の青年と道ならぬ恋の結果出奔してまた夫の待つ家に戻らなければならなかったことがあるらしく、そうした経験から読まれた句だ。歌人の柳原白蓮とかもそうだけど私はこんな風に何もかも捨てて恋愛に懸けることはできないだろうなあとわかっているからこそ、真砂女の経験から絞り出された十七音に息を吞むことしかできなかった。
そしてまた鈴木真砂女の句。
唆されても水着姿になる気なし 鈴木真砂女
森薫という漫画家がいるのですがとにかく女性に病的なフェティシズムを持って描き続けています。彼女の短編集『森薫拾遺集』には新婚旅行で着た水着を押し入れから引っ張り出して着る肉感的な人妻の漫画(ただ水着を着るだけ)があるんですがそれを思い出した。こういう類想というか、何かを引き出すことができる句や歌は面白い。
詩歌ブームはいつまで続くのか。私はかなり飽きっぽいのですが、飽きてもそのうちまた思い出して「この句はいいなあ」とか「この歌ムカつく!」とか言ってると思います。