1997年12月24日は「少女革命ウテナ」の最終話が放送された日です。
シリーズ構成は榎戸洋司(アニメ「桜蘭高校ホスト部」なども担当)で、話の組み立て方はもちろんのこと、話を追うごとに夜が長くなっていく季節の移り変わりまで気を配られている稀有な女児向け(?)アニメではないでしょうか。
Netflixでの配信は来年の1月11日までらしいので、ブルーレイを買おうと思います。そもそも再生機器を持ってないので、プレイヤーを買わないといけないのですが……。
私の周りの人間はこのアニメが好きな人が多い。かくいう私も2017年の20周年記念の展示には行った。暁生の車の上に載って写真を撮ることができたり、デュエルへの招待状がロッカーに貼られているのを再現していたりしましたが、同行者もいなかったので、ろくな写真は撮れなかった。展示の最後で、ウテナがアンシーを棺から救い出す大詰めのシーンがまあまあ大きいスクリーンでエンドレス再生されていたのが印象的でした。「へめみやああああああ!!」と川上とも子ボイスで叫んでいるのをあれだけの回数見られる場所は今後なさそうでした。
「少女革命ウテナ脚本集 下 薔薇の刻印」(榎戸洋司著、1998年4月 アニメージュ文庫)を引っ張り出して、39話「いつか一緒に輝いて」を読み直す。ちなみにこれは7話分の脚本しか収録されておらず、第3部の鳳暁生編から25話、26話、30話を、第4部の黙示録編から34話、37話、38話、39話だけがより抜かれています。
あとがきで榎戸氏が語っていたことが面白かったので以下引用。

 理想だけで現実は渡っていけないことを認めるのに、ずいぶん時間のかかってしまう人はいる。現実を知らない(認めない)言葉だけで、世界を語りつくせるのではないかと。
 大人は汚い、とかいうのは簡単だ。
 けれど、手を汚すことを自覚する魂が、人間性の豊かさに深く関係しているのも確かだ。
 そして描くべきもの――セクシャリティと人間性は、不可分にしてひとつである。
 だが――
 現実を超える理想が現れたとき、そこに革命が起こる。
 だから僕たちは、天上ウテナという少女を描いた。
 勝てるわけがないと知りつつ、彼女に戦い抜いてほしいと思った。
 ウテナはアンシーのすべてを受け入れた。
 おそらくこのキリストは、鶏が鳴く前に、アンシーが三度ウテナを知らないと言うことを知っていたのだろう。
 大人の汚さを嫌う安易さに比べて自身がそれに染まらずにいるのは難しい。同様に、人を好きになるのは簡単だが、裏切った人を許すのは難しい。
 主人公のウテナ以上に、世界の果て/暁生を描くことの子細にこだわった意味は、今日という日に、僕たちが認識すべき鏡像だからである。(p.186 あとがきより)

理想だけを見続けていまある世界を認めない、という態度をとってしまうことは身に覚えのないことだと言えば嘘になる。誰しもそういうことはあるんじゃないかと思う。そうしたときに、そのまま目をつぶったままで居続けるのか、ウテナと最終話以降のアンシーのように「手を汚すことを自覚する魂」を持つことができるかで、大きく違いが生まれるだろう。暁生がクズだといって他者化することも簡単だ。彼のように肩書だけを追い求め人を踏みつけにし続けること確かによくないことだけど、自分はいったいどうなんだ、と振り返ってみなければならないのだろう。また、「少女革命ウテナ」はすぐれた作品だし、独特の演出はある種の信者を産みやすいのもわかる。その舞台の描写や、鳳学園の美しい墓(ピンドラは『美しい棺』でしたね)に耽溺するファンがいるのもうなずける。自分がそうではないとは言い切れないのが恐ろしいところ。

卵の殻を破らねば、雛鳥は生まれずに死んでいく。我らが雛で、卵は世界だ。世界の殻を破らねば、我らは生まれずに死んでいく。世界の殻を破壊せよ。世界を革命するために。

何度も繰り返されるこの言葉を胸に、学園を去るアンシーの背を追うことが私たちにできるでしょうか。
とりあえず年末は実家のピアノで「光さす庭」でも弾いてみようと思います。

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