「ザ・スイッチ」って映画が面白そうです。
なぜか予告編のBGMはDie Antwoordの “I fink you freeky”で、よく聴いていた曲なので思わず気を取られた。
殺人鬼と女子高生が入れ替わるという話で、なんか今期始まった綾瀬はるかと高橋一生の入れ替わりドラマと設定がほぼかぶっているのでタイミングが悪いなと……。
あと旧劇エヴァを劇場で観たい! しかしビビりなので実際に足を運ぶかは謎です。
誰もいなさそうな平日なら休み取って行けるかなと思うけど、命を賭けてまでやりたいことなのか(大げさかもしれないけど、後悔してからだと遅い)とか……。いろいろ苦しい状況なのはわかるんだけど私もある意味エンタメ軽視しているんですよね。
家族は寄席に行ったり宝塚を観に行ったりしているので心配です。
投稿者: Megamax
本好きにあまり理解されないとわかっているのですが、物体としての本とか稀覯本にあまり興味が持てません。
資料として大切なので、保存・調査が重要なのはわかるのですが、集めようとは思わない。
内容がどうしても読みたいと思って、図書館にもないレアな本を探すことはある。
紙や美しい装丁そのものよりも、言葉だけがあればある内容を指し示すことができることのほうがよっぽど魔法じみていると思うからです。
論文とか、ちゃんとした引用だと、出版物の名前とそれが書かれているページと著者、出版社、出版年を示さないといけないと思うけど、それは証拠として示さないといけないからなのでしょうがないと思う。
たとえば「いづれの御時にか、女御、更衣あまた候ひ給ひける中に、いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて 時めき給ふありけり。」と言えば源氏物語の「桐壺」だとわかる。俳句や短歌のようなものだと、句集、歌集はあれどもやっぱり作品それ自体の独立性みたいなものがもっと感じやすいのではないか。
加賀野千代女の「朝顔につるべ取られてもらい水」とか、正岡子規の「くれなゐの二尺伸びたる薔薇の芽の針やはらかに春雨の降る」とか、もうそれだけでいいというか、まあ収録されている本は大切なんだけど、それを口に出して相手と共有すれば、誰のどの作品かわかることのほうがいいと思う。極端だけど、どこにこれらの作品が初出なのかとか、どのノートに書いてあるかとか知っている人なんて研究者くらいしかいないだろう。二階堂奥歯の日記に牧野修の「MOUSE」について書いてあるものがあったのだけど、そこで引用されているシーンがまさに、といった感じ。
以下、日記からまるごと引用。よくないですね。
「(前略)それじゃ始めるよ……月」
「月の光り」
「爪」
「爪で掻く金属の皮膚」
「剣、剣の上」
「剣の上に乗る裸足の脚の先」
(中略)
「裸足の人形の土で出来た十二匹の鼠」
「青く塗られた人形の前にひざまづき歌う十二人の水兵」
「水兵の青く塗られた唇に挟まれた薄荷煙草の……」
「煙草の先の炎に眼をつけ世界を見る柔らかな少年……」
「少年の海は疲れた魚の群に頭をつけて……」
(中略)
「頭から剥がれ落ちた魚の群に身を投げる女王の……」
「女王のトランプをくすねた歪んだ頭のイギリス人の尻を蹴飛ばし……」
「走るイギリス人の脚に」
「走るイギリス人の脚にもたれた眼のない兎の」
「眼のない兎の走る脚に」
「眼のない兎の走る脚に」
二人は同時に唱和し始めた。
「帰らないことを前提とした故郷に棲む兎の、眼のない兎の、月、剣、爪。シーラカンス、ブーゲンビリア」
(牧野修『MOUSE』ハヤカワ文庫)
常にドラッグを体内に摂取し続けている17歳以下の子供たち(マウス)が住む、廃棄された埋め立て地、「ネバーランド」。
全員が常にそれぞれの幻覚を見続け、「客観的現実」がないそこでの攻撃とは、言葉によって相手の見ている幻覚(=現実=世界)を変化させ屈服させることである。
そしてそこではまた、誰かと同じものを見るにはお互いの主観を重複させなければならない。引用したのはそのために自動筆記のように連想を重ね、意識を同調させていく儀式。あまりに美しいので丸ごと書いてしまいました。
世界は言葉でできているということを、「ひとつのリアリティ」を持って描いた優れて詩的な作品ではないでしょうか。(『八本脚の蝶』二階堂奥歯、2002年1月19日(土)の日記より引用。「MOUSE」の部分、孫引きすみません!)
いま生きている現実の話で言えば、ある種のミームと化しているシーンなんかもそうか。同じ作品の話をするときに「あなたには世界を革命するしかないでしょう」(少女革命ウテナ)とか、「笑えばいいと思うよ」(新世紀エヴァンゲリオン)、「やっぱり神様なんていなかったね」(いつか降る雪)、「このカシオミニを賭けてもいい」(「動物のお医者さん」だけど、ほんとは「エロイカより愛をこめて」のジェイムズ君が元ネタ)、「おらあトキだ!」(ガラスの仮面)とか……。枚挙にいとまがない。例がアニメ・漫画しかないのかよって感じですけど。
言葉そのものとはずれたけど、それだけで同じものを想起することができる例だと言わせてください。
「痛みますか」「いいえ、あなただから、あなただから」みたいな美しいやりとりは頭から離れませんね。
しかし執刀医が好きだという気持ちだけで外科手術の痛みは耐えられないでしょう。
「明日、私は誰かのカノジョ」読みたさにサイコミのアプリを入れたのだけど、課金以外で漫画を読むためのコインを取得する方法が、よくわからないサイトに登録しなければならないっていうのはちょっと微妙だなと思った。
ご丁寧に退会の仕組みまで案内してくれているけれど、意味不明なサービスに情報を握られることのデメリットのほうが大きくないかと思って登録はやめた。
noteとかああいうサービスもそうだけど、「読む」ことに数百円払い、単行本は手に入らないシステムのほうがよっぽど儲かりそう。でもそういうわけでもないのかなと思ったり……。自分自身は1話読むために60円払う(しかも7日間しか読めない)ことにいまいち納得がいかないので使わないようにしようと思います。
漫画のストリーミングサービス、もうちょっとマシにならないかな?
まあもともと雑誌派と単行本派との間には埋めがたい差があるとは思うけど……。
「市松サンのように美しい面輪も、恒夫には物珍しかった。大学のキャンパスで見る女の子たちはみな、すこやかな雌虎のようにたけだけしく、セクシュアルだったが、ジョゼには性の匂いはなく、旧家の蔵から盗み出してきた古い人形を運んでいるような気が、恒夫にはした。そんな彼女には、高圧的な物言いがぴったりだった。」(「ジョゼと虎と魚たち」、田辺聖子、角川文庫)
しかしそんなジョゼが茶髪の萌えキャラ(死語か?)としてアニメ映画になっていることに不満が隠せません。
お金は払いたくないので、行きません。行ってから文句を言えという話かもしれませんが、あまり角川のメディアミックスのやり方とかコミックエッセイ部門がとりあえずTwitter作家の本を出すだけみたいな感じになっているのもなりふり構わなすぎてつらいのです。原作枯渇しているわけでもなさそうなのに、あえて池脇千鶴がやった映画がありながらアニメにする意味はあまりわかりません。
そもそもああいう美少女の造形が、情緒のかけらもないように感じるし、恒夫のキャラデザも涙しか出ません。
どちらかといえば、冒頭引用した箇所に示されているようにジョゼは市松人形のよう、と作中何度も繰り返されている。ジョゼはふざけてではあるものの恒夫を「管理人」と呼び、関係を結んでも普通の彼氏彼女という呼び方はしていない。
どちらかといえば、「春琴抄」の佐助と春琴の間に漂う微妙な官能の空気みたいなものをまとう作品なんだけど。
いろんな男がいても結局林作との「甘い蜜の部屋」に何度も戻ってしまうモイラみたいな感じもする。
ジョゼはこうも思っている。
「魚のような恒夫とジョゼの姿に、ジョゼは深い満足のためいきを洩らす。恒夫はいつジョゼから去るかわからないが、傍にいる限りは幸福で、それでいいとジョゼは思う。そしてジョゼは幸福を考えるとき、それは死と同義語に思える。完全無欠な幸福は、死そのものだった。(アタイたちはお魚や。「死んだモン」になった――)と思うとき、ジョゼは(我々は幸福だ)といってるつもりだった。」(同上)
コミカライズも、アニメ化したものも、水族館にいる魚たちと、幸せな二人の姿に死の匂いを漂わせてはいけないのだろうか。
そういえば落窪物語を題材にした「舞え舞え蝸牛」は作者の古典籍の教養の深みを感じられるので、「おちくぼ姫」のあとはそれを読んでみるといいと思います。
なんかほんと自分は頭が悪いんですけど、国語の造詣が深いってすごいですよね。俵万智も国語の先生だったし。
熟語だけ難しいものを使っても、それを使う文章がしっかりしていなければ、そういう難しい言葉は上滑りするだけになってしまうから、「ちゃんとした」文を書けるってすごいことだと思いますね。
俵万智なんかはライトヴァースの旗手ですけど、彼女も源氏や「みだれ髪」をチョコレート語訳と称して我々にわかりやすく解説しつつ「うた」にする技量を持っているので、なかなか真似できるものではない。
アニメ「ぼくらの」を見ていたら、作中、怪獣が出現する並行世界の地球では「緊急事態宣言」のテロップが踊っていた。
品川区周辺に出現したので近隣住民の皆さんは避難してくださいとアナウンサーが言っていた。
しかし現実はもっとひどいというか、自分自身も感覚が麻痺していると思った。
都市が危機に襲われるといえば、「シン・ゴジラ」ってオタクが考えるつよい日本って感じでげんなりしていたんですけど、実際ゴジラが来たら人々は団結するのでしょうか?
というか、被害の規模が(まだ)違うか。あれは内閣が全滅したり都内の死亡者・行方不明者の総数が360万人だったりしたみたいだし。東京都の人口が920万人くらいとしたら、大体4割は死んでいる計算になる。,
見に行きたいホラー映画がたくさんあるけど、どうしようもないので、Blu-rayでもまとめて観ることにするか。
超くだらないことで恐縮なのですが、先日ワイヤレスイヤホンをなくしました。
駅員さんに調べてもらってもなしのつぶて。
イヤホンをなくすまで、街を歩くときはYumeji’s themeを聴いて花様年華ごっこをしていたのですが、なんだかこの音楽が流れるだけでドラマチックな気分になりますよ。
詩人のアーサー・ビナード氏はとあるインタビューで、彼は携帯電話を持ったことがなく、広告であふれている電車の中も嫌悪していて、そして携帯を持たないことは一種の抵抗だと言っていた。確かにすべてに広告が付随してきて気分が悪いし、Youtubeもお金を払えば数十秒間見たくもない広告を見せられることから逃れられる。
実際イヤホンをつけて外出するのは危ないし、目の前にある物事への感覚を遮断して自分だけの世界に没入する独りよがりな行為だと思う。イヤホンをなくす前はよくやってる(た)けど。
読書や映像の視聴だって、ある種現実逃避なわけですが、歩きながら音楽を聴くというのは、実際はそこらへんの道路を歩いているのに頭はそこにない状態に行くので、その辺りの違いが重要なのかな。
もう二度とイヤホンを落としたくないので、しばらく買わないで過ごすことにします。
「人と思想 マリア」(吉山登著,清水書院 1998年2月25日)の表紙で、著者はこう言っている。
「人類の歴史の中で、イエスの母マリアほど、あらゆる時代、あらゆる民族の中で愛された女性はいないのではないかと思う。もちろんそれは、マリアの子どもイエス=キリストへの愛が、人々を母マリアにも愛着させるのである。だがマリアの場合、親子関係が同時に救い主なる神と救われるべき人間の一人という、救いの恵みの関係にある。したがってイエスの母マリアには、イエスの母としての敬愛以上に救いの恵みに満たされた者に対する敬愛があり、イエスの救いの尊さに目覚める人が増えるにつれて、イエスの母マリアに対する崇敬が高まっていくのである。」
さて、アイルランドの小説家、コルム・トビーンによる作品で「マリアが語り遺したこと」(原題:The Testament of Mary)が新潮クレストブックスから出ています。これはもともと芝居の脚本で、一人で演じるものらしいのでモノローグがかなり多いのですが、イエスの弟子たちがマリアに対してマンスプレイニングしているところや、新興カルト教団のリーダーになった挙句処刑され、自身も追われる身になったことを本当にわけがわからない状況として描いています。一貫して、マリアは普通の人間で、息子を心配し、いわゆる「聖母」のイメージにはそぐわない物語であることは間違いないでしょう。ローマ・カトリックを信じる人々からは猛バッシングを受け、いろんなレビューを読んでいるうちにこういう記事を見つけました。面白い箇所は記事の下の方にあるこのパラグラフです。
It is not Mary’s unorthodoxy that troubles me. Toíbín is trying to deconstruct the images of the passive, bloodless Mary that dominated pietistic art of the 19th and 20th centuries; and I, along with most of his readers, welcome that corrective. What troubles me about his Mary is that she is a coward. After her son is nailed to the cross—a scene described in agonizing detail—Mary runs away. She runs away because she cannot help him, because she is afraid and (here is the hardest part to swallow) because she wants to save her own skin.
Toíbín sins here against Scripture and tradition, yes, but also against the more universal code of Motherlove—that irresistible compulsion that drives a mother to protect her child at any cost. Motherlove is the deep knowledge that you would stand between a killer and your child and take a bullet in the face, that you would dive in front of a runaway train to shove your child off the track, that you would part with your own heart if your child needed it and that you would do this gladly. The inventions of tradition and bad art have provided us with too many impossible Marys who bear no relation to us. Do we need another? Toíbín denies Mary what makes her most human, sinning at last against the law of verisimilitude, and giving us one more Mary we cannot believe in.
(“The Trouble with ‘The Testament of Mary’ by Angela Alaimo O’Donnell, May 02, 2013より引用。ただし太字は筆者による)
The more universal code of Motherloveとは大きく出たな。たぶんこのサイトははっきりとした宗教色はないと思うのですが、他のローマ・カトリック色を出しているウェブメディアでは思いっきりEvilとか言われていたのだけど、そういうやり方ではなく、こっち路線で批判していくのか、と。まあでももしかしたら、旧約聖書のレビ記で大罪として指定されている子殺し(人工妊娠中絶への反対運動も結局ここに行きつくのかな)を間接的にやっているとでも思っているのかな。いろいろ検索しているうちに『母性愛という制度――子殺しと中絶のポリティクス』
(田間 泰子,2001年8月20日,勁草書房)というどんぴしゃな本を見つけたので図書館で読んでみようと思います。
1997年12月24日は「少女革命ウテナ」の最終話が放送された日です。
シリーズ構成は榎戸洋司(アニメ「桜蘭高校ホスト部」なども担当)で、話の組み立て方はもちろんのこと、話を追うごとに夜が長くなっていく季節の移り変わりまで気を配られている稀有な女児向け(?)アニメではないでしょうか。
Netflixでの配信は来年の1月11日までらしいので、ブルーレイを買おうと思います。そもそも再生機器を持ってないので、プレイヤーを買わないといけないのですが……。
私の周りの人間はこのアニメが好きな人が多い。かくいう私も2017年の20周年記念の展示には行った。暁生の車の上に載って写真を撮ることができたり、デュエルへの招待状がロッカーに貼られているのを再現していたりしましたが、同行者もいなかったので、ろくな写真は撮れなかった。展示の最後で、ウテナがアンシーを棺から救い出す大詰めのシーンがまあまあ大きいスクリーンでエンドレス再生されていたのが印象的でした。「へめみやああああああ!!」と川上とも子ボイスで叫んでいるのをあれだけの回数見られる場所は今後なさそうでした。
「少女革命ウテナ脚本集 下 薔薇の刻印」(榎戸洋司著、1998年4月 アニメージュ文庫)を引っ張り出して、39話「いつか一緒に輝いて」を読み直す。ちなみにこれは7話分の脚本しか収録されておらず、第3部の鳳暁生編から25話、26話、30話を、第4部の黙示録編から34話、37話、38話、39話だけがより抜かれています。
あとがきで榎戸氏が語っていたことが面白かったので以下引用。
理想だけで現実は渡っていけないことを認めるのに、ずいぶん時間のかかってしまう人はいる。現実を知らない(認めない)言葉だけで、世界を語りつくせるのではないかと。
大人は汚い、とかいうのは簡単だ。
けれど、手を汚すことを自覚する魂が、人間性の豊かさに深く関係しているのも確かだ。
そして描くべきもの――セクシャリティと人間性は、不可分にしてひとつである。
だが――
現実を超える理想が現れたとき、そこに革命が起こる。
だから僕たちは、天上ウテナという少女を描いた。
勝てるわけがないと知りつつ、彼女に戦い抜いてほしいと思った。
ウテナはアンシーのすべてを受け入れた。
おそらくこのキリストは、鶏が鳴く前に、アンシーが三度ウテナを知らないと言うことを知っていたのだろう。
大人の汚さを嫌う安易さに比べて自身がそれに染まらずにいるのは難しい。同様に、人を好きになるのは簡単だが、裏切った人を許すのは難しい。
主人公のウテナ以上に、世界の果て/暁生を描くことの子細にこだわった意味は、今日という日に、僕たちが認識すべき鏡像だからである。(p.186 あとがきより)
理想だけを見続けていまある世界を認めない、という態度をとってしまうことは身に覚えのないことだと言えば嘘になる。誰しもそういうことはあるんじゃないかと思う。そうしたときに、そのまま目をつぶったままで居続けるのか、ウテナと最終話以降のアンシーのように「手を汚すことを自覚する魂」を持つことができるかで、大きく違いが生まれるだろう。暁生がクズだといって他者化することも簡単だ。彼のように肩書だけを追い求め人を踏みつけにし続けること確かによくないことだけど、自分はいったいどうなんだ、と振り返ってみなければならないのだろう。また、「少女革命ウテナ」はすぐれた作品だし、独特の演出はある種の信者を産みやすいのもわかる。その舞台の描写や、鳳学園の美しい墓(ピンドラは『美しい棺』でしたね)に耽溺するファンがいるのもうなずける。自分がそうではないとは言い切れないのが恐ろしいところ。
卵の殻を破らねば、雛鳥は生まれずに死んでいく。我らが雛で、卵は世界だ。世界の殻を破らねば、我らは生まれずに死んでいく。世界の殻を破壊せよ。世界を革命するために。
何度も繰り返されるこの言葉を胸に、学園を去るアンシーの背を追うことが私たちにできるでしょうか。
とりあえず年末は実家のピアノで「光さす庭」でも弾いてみようと思います。
シスターグラシアは、私が通っていた女子校の教頭の名前そのままである。ことあるごとに全ての人々は平等であると説く人だった。たしかにあのときあの世界は平等だった。私たちは数年経てば平等ではない世界に放り出されるが、シスターグラシアは永遠に平等な世界に生きている。(p.122「昼飯の角度 脚本家 大島多恵子」『帝国の女』宮木あや子,2018年6月20日,光文社文庫)
この話の主人公が通っていた学校はカトリックのようだが、「すべての人は平等である」こうした教えを欺瞞だと言い切ることができるほど醒められていない。たしかにあそこにいた教員たちは、川の底に残された石のように入れ替わることもなく、ただ6年間のスパンで卒業してゆく生徒たちを見送ることしかできない。それであるなら、その場だけでも夢見させん、と温室を整えきれいごとを説くのと、外の世界は平等じゃないと常に厳しく(?)教えることとどちらがマシなのだろうか。
アリ・アスター監督の「ミッドサマー」はスウェーデンのホルガ村という架空の場所を舞台にしたホラー映画だ。
あらすじ他は有名すぎるのでここでは割愛。
ヒロインのダニが彼氏のクリスチャン(!)の浮気を目撃して号泣するシーンで、ホルガ村の女たちはダニと共に泣く。クリスチャンが村の娘と番う(Mateという単語を使われていたので、本当に動物の雄と雌の交接としか扱われていないと考えあえてこの動詞を使います)ときも彼らの周りを裸の女たちが取り囲み、全員でその場を共有していた。
たぶんとても奇妙なシーンだと思う。
ところで、私はキリスト者しか教師になれないミッションスクールに通っていたのだけど、そこでは毎年泊りがけで修養会(英語ではリトリート)が行われていた。だいたい偉い牧師の話を聞いてみんなで感想を言いあったり牧師に質問したりするイベントだと思ってもらえればいい。正式には、日常生活から退却して(Retreatという単語本来の意味)キリスト教の信仰をきちんと考えようといった感じなのかな。
たぶん中学3年生のころ、修養会のなかで生徒の中から受洗者を壇上に立たせ「証」と称するキリスト者が人生の経験を共有するような場がもたれた。生徒A、生徒Bとなぜかみな辛い経験を語らされていたのだけれども、涙でつっかえながら話を続ける生徒を見ながらすすり泣く声が聞こえてきたり、応援する声が聞こえてきたりと、会場は独特の一体感に包まれていた。私はいつも一体感とか言い出すイベントごとがうんざりだったし、牧師の「お話」の最中もずっと寝ていたのでどうにも盛り上がれなかった。その子たちのことや、周りの生徒が嫌いなわけではない。でもその場で感じた居心地の悪さは、事あるごとに顔をのぞかせた。
「ミッドサマー」で描かれたカルト宗教は極端に戯画化されているものの、現実世界に存在する無数の「そういう場」を表現しているのではないかと感じた。この映画を見ることで生み出される「こいつらヤバい」という空気すらメタく認知すれば同じようなものなのかとも。カルトとみなされる側にいるかそうでないかの違いでしかない。今後どっちに行くかわからないけれど、できれば自分が呼吸しやすい場所で生きられますように。