「市松サンのように美しい面輪も、恒夫には物珍しかった。大学のキャンパスで見る女の子たちはみな、すこやかな雌虎のようにたけだけしく、セクシュアルだったが、ジョゼには性の匂いはなく、旧家の蔵から盗み出してきた古い人形を運んでいるような気が、恒夫にはした。そんな彼女には、高圧的な物言いがぴったりだった。」(「ジョゼと虎と魚たち」、田辺聖子、角川文庫)
しかしそんなジョゼが茶髪の萌えキャラ(死語か?)としてアニメ映画になっていることに不満が隠せません。
お金は払いたくないので、行きません。行ってから文句を言えという話かもしれませんが、あまり角川のメディアミックスのやり方とかコミックエッセイ部門がとりあえずTwitter作家の本を出すだけみたいな感じになっているのもなりふり構わなすぎてつらいのです。原作枯渇しているわけでもなさそうなのに、あえて池脇千鶴がやった映画がありながらアニメにする意味はあまりわかりません。
そもそもああいう美少女の造形が、情緒のかけらもないように感じるし、恒夫のキャラデザも涙しか出ません。
どちらかといえば、冒頭引用した箇所に示されているようにジョゼは市松人形のよう、と作中何度も繰り返されている。ジョゼはふざけてではあるものの恒夫を「管理人」と呼び、関係を結んでも普通の彼氏彼女という呼び方はしていない。
どちらかといえば、「春琴抄」の佐助と春琴の間に漂う微妙な官能の空気みたいなものをまとう作品なんだけど。
いろんな男がいても結局林作との「甘い蜜の部屋」に何度も戻ってしまうモイラみたいな感じもする。
ジョゼはこうも思っている。
「魚のような恒夫とジョゼの姿に、ジョゼは深い満足のためいきを洩らす。恒夫はいつジョゼから去るかわからないが、傍にいる限りは幸福で、それでいいとジョゼは思う。そしてジョゼは幸福を考えるとき、それは死と同義語に思える。完全無欠な幸福は、死そのものだった。(アタイたちはお魚や。「死んだモン」になった――)と思うとき、ジョゼは(我々は幸福だ)といってるつもりだった。」(同上)
コミカライズも、アニメ化したものも、水族館にいる魚たちと、幸せな二人の姿に死の匂いを漂わせてはいけないのだろうか。
そういえば落窪物語を題材にした「舞え舞え蝸牛」は作者の古典籍の教養の深みを感じられるので、「おちくぼ姫」のあとはそれを読んでみるといいと思います。
なんかほんと自分は頭が悪いんですけど、国語の造詣が深いってすごいですよね。俵万智も国語の先生だったし。
熟語だけ難しいものを使っても、それを使う文章がしっかりしていなければ、そういう難しい言葉は上滑りするだけになってしまうから、「ちゃんとした」文を書けるってすごいことだと思いますね。
俵万智なんかはライトヴァースの旗手ですけど、彼女も源氏や「みだれ髪」をチョコレート語訳と称して我々にわかりやすく解説しつつ「うた」にする技量を持っているので、なかなか真似できるものではない。