Violet Chachkiの “A Lot More Me”、歌詞も含めて聞いてほしい。

He gives me rhinestones, diamonds
You know I want ’em all
He likes my cake, he likes to eat it
And leaves me climbing the walls
But when I wake up in the morning
All I wanna see
Is a little less you and a lot more me (“A Lot More Me”, Violet Chachki)

この人はジョン・ウィリーが好きらしいです。フェティッシュ・ファッションとハイファッションを組み合わせたハイブリッドなルックを作り出す力があるクィーンです。Dita Von Teeseとか好きな人は絶対好きですよね。多分チャチキと趣味合うと思う。本人のYoutubeチャンネルではクローゼットの紹介してくれたり、このエピックなチャチキ・フェイスの化粧の仕方まで惜しみなく披露してくれています。
水原希子がOKハロウィンパーティーというイベントでチャチキを呼んでくれたとき、この歌をBGMに、トレンチコート(中は下着姿)を着てキラキラのルブタンを履いてエアリアルのパフォーマンスをしてくれました。
完全に余談ですがクラブの待機列に並んでいたときにちょうどチャチキが入りの時間で、列を割かれたときに目の前を通り過ぎていったことが思い出です。縁石につまずいてました。そしてヒール込みで200cmくらいあった。
あまりに遠い存在っぽいとよく忘れるけど、同じ世界で生きていて呼吸をしている人なんだなあと思うと不思議。
水原希子さん、そして今年の3月にイベントを開いてくれたVoss Eventsの責任者の方、ありがとうございました。またいつか生でパフォーマンスを観られますように。

「俳句おもしろい、 駐車場雪に土下座の跡残る(『新宿歌舞伎町俳句一家「屍派」アウトロー俳句』河出書房新社, 2017.12.15)とかいいよ」とか言っていたら親が「昔篠田節子の作品を全部読んだのだけれども、『死神』という短編集ですごい短歌が引用されていてそれに鷲掴みにされた」と言ってきた。そんな話聞いたことがない。
「鳥一羽テトラポッドに墜死する潮満ちきたれ潮にしたがえ」という歌らしい。短編集は未読なので何が良かったのかは分からないがこれから読もうと思います。
短歌は三十一音と、俳句に比べれば多いですね。それでもソネットみたいな十四行詩の形式に比べればよっぽど短いのだけど。穂村弘とか岩倉文也とか一部(Twitterや日経歌壇)で有名と思しき人しか知らないにわかですが、もっと読んでみたいなあ。高野公彦『短歌練習帳』(本阿弥書店, 2013.11.25)を読んではいるものの、作るのが一番難しいしセンスないし語彙力ないし。あと「シン・ゴジラ」が流行していた時に高橋一生演じる安田がゴジラ騒ぎで恋人を亡くしているのではないかという想定で短歌を作る二次創作がTwitter上で散見されたこともありましたね。発端はもう4年前の9月なのか。

高野公彦の本で引用されていた歌ですが、
約束は嘘だつていい冷凍庫の中で霜まみれのルームキー 山田航「さよなら、バグ・チルドレン」
特に高野公彦によっては触れられていなかったがこれは椎名林檎のイメージでは?

急に只寝息が欲しくなって冷凍庫にキーを隠したのです 椎名林檎「依存症」の歌詞
めちゃくちゃなリズムだし歌詞の一部だけど確かに三十一音か?

そういえばTwitterに偶然短歌bot(@g57577)というものがありますね。私は中学受験の時に「何文字以内で引用せよ」という国語の設問の答えを考えている時に5文字ずつテキストに傍線を引いて数えていたので文字数カウントには思い入れがあります。まあ短歌という短歌になっていないと思うけど。

『ホスト万葉集 嘘の夢 嘘の関係 嘘の酒 こんな源氏名サヨナライツカ』(講談社,2020.7.8)という本があったので読んだ。ラストソング(ホストクラブ行ったことがないのですが、その日の売上が一番だった人がラストになんか歌ったりスピーチしたりするというぼんやりした知識しかない)についての歌がよかった。
ごめんねと泣かせて俺は何様だ誰の一位に俺はなるんだ 手塚マキ

神野紗希『女の俳句』(ふらんす堂,2019.10.30)を読んでいます。俳句のなかで「女」を描いているものをメインにピックアップして作者の批評とともに紹介されていて、俳句なんてほぼ現代文の教科書で触れただけの自分でも楽しく読めます。あまり単純化することもできないけれど、ラップや和歌を詠んだときの楽しさみたいなものに似ている気がします。あと、「乳房」とか「少女」といったキーワードに沿って句が紹介されているので、高浜虚子みたいな俳人から現代の俳人の作品まで触れることができるのもおすすめなところです。まあもやもやする点もあるのですが……。
 姉妹の句は、富澤赤黄男のアフォリズム「蝶はまさに<蝶>であるが、<その蝶>ではない」になぞらえれば「姉はまさに<姉>であるが、<その姉>ではない」(妹もしかり)ということができるだろう。現実の姉や妹の生態よりも、詩のモチーフとして高度に象徴化されたイメージが読解の鍵だとい点では、「姉」や「妹」という単語も、季語とそう変わりはないのである。(『女の俳句』p.37)

そしてまた<少女>という単語もそのアフォリズムになぞらえることができるだろう。表象されている<少女>はもはや現実の少女とはほとんど関係がない。そしてそれは俳句に限らず文学―Literatureの範囲にあるもの全てにおいて象徴化された理想像が描かれている。問題はそれを現実の少女や女という存在にも投影されうるという点だ。神野はまた「少女の市場的価値は非常に高い。古くは『源氏物語』の紫の上から現代のアニメ「けいおん!」まで、少女という存在は千年以上、欲望の対象だった。その特性はまず、処女であることだろうか。まだ誰のものでもない女としての少女は、理想の女性として文学にも描かれてきた。」(『女の俳句』p.12)と前置きしたうえで、西東三鬼の「白馬を少女瀆れて下りにけり」という句の説明をしている。言わずもがな、またがる、という行為の性的な意味を付与した句だ。
神野は<少女>のチャプターをこう結んでいる。「少女期というのは、すべての人にとって美しい一時の夢なのである。」(『女の俳句』p.17) すべての人とは大きく出たなと思います。まあこうやって終わりたくなる気持ちはわかります。シメの文章は難しいので聞こえの良いことを言っておけば結構楽なんです。かつて<少女>という概念に近しい年代だった現実の少女たちがあの頃をナルシシズムに浸りながら思い出すこともあるだろう。そして秋元康(こうやってタイプすることすら寒気がする)の歌詞のようにプールの授業を受ける少女たちを盗み見してマスターベーションしている男が夢見る<少女>期の夢もあるだろう。
でも、<少女>期は終わっても現実の少女は大人になる。連続性のある存在であることを、どうして覚えていられないのか。

たしかに<少女>は魅力的な存在である。ただ、現実の少女は必ずしもそうではない。そして「少女期」というものも殆ど何らかの作品でキャプチャーされない限り本人たちが自覚することもない。<少女>と<少年>の物語は常に生産され続けているけれども、真っただ中にある人間が外部からそれを掴んで文学的な意味を付与するだとか、物語としてとらえることは人間にメタ認知能力が備わっていない限り無理。
まだこの本は読みかけですが、高度に象徴化されてはいるのだけれども、現実にいる存在を模して理想化した形での表象の消費にほとほとうんざりしている私にとってはウゲーとなる句がたくさんある。そもそも俳壇自体が結社で句会をやって評価しあって、とかこの結社は誰々さんの句系でっていう形で成り立っていてかなりお堅いもので遊びがないのかなあ……。北大路翼編『アウトロー俳句』なんかだと割と目を瞠るものが多いのですが、そういったものよりも、正岡子規が言う「写生」とか高浜虚子とかがまだまだ生きている世界なんですよね。

ただすごい句もある。
牛久のスーパーCGほどの美少女歩み来しかも白服 関悦史
関悦史特集を結社誌で読んだけどテーマがBLのものがあったり性的な言葉を直截に織り込んだものがあったりしてすごかった。もっと読まれるべき。ただ私テレビ見ないので知らなかったのですが夏井いつき先生も出ているプレバトって番組に出ていたんでしょうか、サジェストに出てきたのでそう思いました。結社誌の『翻車魚』の去年11月号とか(年刊らしいけど)が関悦史特集だったので皆さん手に入れてください。

また、<ファッション>というテーマに収録されている、
羅や人悲します恋をして 鈴木真砂女

鈴木真砂女は海軍士官の青年と道ならぬ恋の結果出奔してまた夫の待つ家に戻らなければならなかったことがあるらしく、そうした経験から読まれた句だ。歌人の柳原白蓮とかもそうだけど私はこんな風に何もかも捨てて恋愛に懸けることはできないだろうなあとわかっているからこそ、真砂女の経験から絞り出された十七音に息を吞むことしかできなかった。

そしてまた鈴木真砂女の句。
唆されても水着姿になる気なし 鈴木真砂女

森薫という漫画家がいるのですがとにかく女性に病的なフェティシズムを持って描き続けています。彼女の短編集『森薫拾遺集』には新婚旅行で着た水着を押し入れから引っ張り出して着る肉感的な人妻の漫画(ただ水着を着るだけ)があるんですがそれを思い出した。こういう類想というか、何かを引き出すことができる句や歌は面白い。

詩歌ブームはいつまで続くのか。私はかなり飽きっぽいのですが、飽きてもそのうちまた思い出して「この句はいいなあ」とか「この歌ムカつく!」とか言ってると思います。

『氷の海のガレオン』―木地雅映子著。私はポプラ文庫ピュアフルから出たもので読んだ。
「自らを天才だと信じて疑わないひとりのむすめがありました。斉木杉子。十一歳。――わたしのことです。」この小説の冒頭部分のインパクトに読者は心を奪われるに違いない。主人公の少女である杉子は周りとは少し変わった女の子で、読書が好き。母親は詩人、父親は何をやっているかわからないけれどフラフラしている。家庭調査票には一応会社員と記入をするものの、毛筆で大きく書くユーモアセンスの持ち主だ。杉子には兄がふたりいて、彼らも杉子同様、学校という場でははみ出た存在である。
このブログの読者の皆さんは小学校在学時のクラスメイトと話を楽しめる子供だっただろうか。筆者は身体が弱くまた運動も得意でないためいつも教室で本を読んでいた。そもそもこれらの小説が「大人ぶっている」と書くこと自体が今現在非常に恥ずかしいのだけれども、小学校4,5年生のころに江國香織(「じゃこじゃこのビスケット」って言葉がむやみに記憶に残っている)など読んだり、6年生には『春琴抄』をはじめとする谷崎潤一郎の著作や、江戸川乱歩の『陰獣』、丸尾末広の『少女椿』、ねこぢる、太田出版から出ていた「マンガ・エロティクスF」、古屋兎丸などのサブカル系の漫画にまで手を出したりした、かなり小生意気な子供だった。そんな子供が、大阪市のかなり治安が悪い場所の公立小学校の子供と話が合うはずがない(私立の小学校でもかなり難しいことは理解している)。
今思えば、「自分の好きなものの話しかできないで、周りの人とコミュニケーションが取れないのは、どうしようもない甘ったれだからだ」と思う。過去の自分は子供じみた自尊心と肥大化した承認欲求を抱えて「どうして誰もわかってくれないの」と他人を拒否するだけだった。
そんなどうしようもない子供だった私は、「私はあいつらとは違う」という、選民意識で疎外されている自分を正当化しようとした。『氷の海のガレオン』の杉子もまた、学校で浮いている自分の立場を、強がってはいるものの不安にはなる。当然のことだ、まだ11歳なのだ。「自分は天才だから他の子となじめないんだ。でもそうじゃないのかもしれなくて本当に自分がおかしいのかもしれない」という気持ちを抱えながら杉子の気持ちは揺れる。ストーリーの中で杉子には理解ある大人である音楽の先生や、まりかちゃんという杉子と同じようにクラスから疎外されている子が登場し、小学校のクラス内の小さな人間関係に揺れ動く杉子が鮮やかに描かれている。読書好きだった子供時代を過ごした人には刺さるものがあるだろう。
そして、この物語にはもう一人の主人公がいる。杉子の母である。杉子は作中に明記されていないものの、発達障害をもつ子供として設定されているらしく、そうした子をもつ親の苦悩が、杉子が母親の行動を描写する場面で伝わってくる。杉子に共感した子供たちが大人になって読み返したとき、母親が普通とは違う子供を育てる際の苦悩と我が子への愛を持ち合わせていることに気づくことができる。そうした意味でもかなり巧みな作品だ。いわゆる児童向け小説であるが、文体が平易なだけで内容は多くの人の心に共感を呼ぶ作品だと思う。あなたもきっとあの頃の自分の気持ちを思い出せるはず。

(この記事は大学時代のサークル活動で使用した文章の再掲です。著作者は私です。)

朝山蜻一という作家は、あまり有名ではない。彼は作家としてのキャリアの長さの割には寡作で、この本に集められている16篇だけでほとんどの作品は網羅されていると言っても過言ではない。平たく言ってしまえばこの本は変態小説のくくりに入れられるような内容であり、さまざまな性的倒錯者が登場するミステリー小説でもある。こう説明をすると本当に意味が分からないが、みなさんも一度お読みになってみればこう説明するほかないと理解できるはずだ。二階堂奥歯のブログで2001年7月だか、最初のほうにも紹介されているので有名じゃないだろうか? 早速一文目と矛盾しているように思うけれども。
 それでは一体どのような作品が収められているのかというと、表題作でもある「白昼艶夢」は極端にくびれた腰をもつ女体を愛する芸術家とその恋人の話で、恋人はコルセットを着用して腰をくびれさせてついには死んでしまうという話である。「ひつじや物語」という作品は、たくさんの飲み屋が立ち並ぶ場所で、羊との性交専門の風俗店がオープンして人気を博すといったところからストーリーが展開していく。また「巫女」という作品は謎の新興宗教集団の教団の幹部であるサディストの男(作中ではそのように呼ばれているわけではないのだが、常軌を逸した責めばかり行うので便宜上ここではこう表現する)によって虐待されて育った巫女と、その男との壮絶な愛の記録といった風情である。ほかには、ラバーが好きな夫婦の愛の行方や、ダッチワイフ好きによって作られた究極の人形の話とか、枚挙にいとまがない。そんな、たぶんいわゆる普通の人は「引く」作品ばかりなのだが、筆者はたまらなく好きだ。
 ここまで書いているとけなしているのかちょっとよくわからなくなってきたが、この作品たちは変態小説な点だけが魅力なのではなく、読みやすいのだが決して砕けているわけではない文体や、起承転結を予測させない展開で読者を飽きさせることがないところも魅力的な本なのだ。筆者のお気に入りの文章は「虫のように殺す」という作品(ゴキブリが嫌いな男が衝動的に女を殺してしまう話)のなかの「他人とは何だ。それは網膜のほんの一部の画像ではないか。しかも最も好ましくない」という箇所である。なんだか嫌な人ばかりの世の中も、この言葉と共に生きていける気さえするのだ。

St Lucy’s Home for Girls Raised by Wolves by Karen Russell
It was very lucky for me to be able to read this short story while I was abroad, which made me think more than just being a stranger. This short story suggest us that the adaptation of social norm are arbitrarily made or constructed by dominant culture.
I was thinking that this title was a kind of metaphor, but actually, this story depicts the process of adaptation for human beings from wolves. It is a science fiction story and it was written in a way that causes universal feeling to readers’ mind. The girls were trained by the external environment and they have been modified irreversibly. The narrator (Claudette) and other girls struggle the training for human beings. That process takes 5 stages, then the story follows each stage to show the difference from being wolves. To consider the title literary, this story represents some sort of evolution (I don’t think that human beings hold a higher position in a hierarchy than wolves, but I could not figure it out which word is appropriate for the change of girls’ behaviors), then the girls are adapted to the “better” life of human beings. Personally, I feel all of the environment in the US is “St.Lucy’s home” and “the nans.” I do not think the US is better than Japan and vice versa. However, to live in a foreign country, it is challenging for me to imitate the appropriate behavior and life of the US. The use of cutlery, the custom of the tip, etc. Many little factors make a major difference. In the last paragraph, the narrator tells a first “human lie” to parents by saying “I’m home.” As I mentioned above, girls have been trained in St.Lucy’s home step by step taking 5 stages and they become humanized. Their transitions were implied in various way such as awkward English when they translate wolves’ language
and the attitude to “strange” girl Mirabella while the narrator also changes her mindset and gradually become “girl” than “wolf.” However, in my opinion, Mirabella should be admired because she adheres her custom and she resists the enforced “evolution.”

この3か月あったこと。
・次の仕事が決まったので前職(秘書という名のなんでも屋)を辞めた
・前職が日本語が話せない上司のもとで英語を使う仕事だったので現在あまり勉強できていない(言い訳でしかない)ので学習習慣を復活させたい
・あんなに望んで入った業界でもどうしようもない人間はたくさんいるということを知った(むしろどうしようもない人間だから目指すのか?)。
・友達といつも通り楽しく過ごした
・詩歌に触れる機会が増え、全然知らなかったことを覚え始めた
・結局人間関係が一番面倒なので外注したいと思っている
・誰とも一緒にいることができないanti-socialな性格が年々悪化

 関西人の描写についていろいろ思うことがあるというか、「方言キャラ」というものの登場の仕方は、標準語とされる言葉を話す地域にむけて書かれたものなんだろうと思うことがある。多くの場合「関西弁キャラ」はストレンジャーであり、転校生であり、他と違う特徴をもるキャラクターである。そうしたキャラクターとして描かれる作品を見るたび、自分たちが話す言語が方言と呼ばれ、関東弁だらけのキャラクターの中で際立ってみえるのねと考えてしまう。女児向けアニメでいえば『おジャ魔女どれみシリーズ』の妹尾あいこ(関西弁を話し、両親は離婚している)が真っ先に思い浮かぶ。『名探偵コナン』の服部平次は「西の」高校生探偵として名をはせ、『あずまんが大王』の春日歩に至っては「大阪さん」というあだ名兼キャラクター名で呼ばれる。(彼女は神戸と和歌山で育ったにもかかわらず、とりあえず大阪さんと呼ばれている)「ポケットモンスター 金・銀」のコガネシティにはアカネというジムリーダーがいて大阪弁のような方言を話す。
 なんというか、スタンダードが東京近郊で話される言葉で、それ以外のアクセントで話す人は「他者」だということが物語の中で当然のように展開していることに無自覚である(あり続けることができる)人は本当に幸せだということです。

 あまりにも蒸し暑いので『シャングリ・ラ』について書いた過去の文章を発掘した。あらすじ部分だけですが。『シャングリ・ラ』は2005年に出版されたSF小説、『シャングリ・ラ』だ。原作とストーリーに差異はある程度存在するが、2009年にはアニメ化もされていて、登場人物の姿を思い描きながら読書を楽しむことができる。
 それはさておき、『シャングリ・ラ』の舞台は近未来の東京だ。しかし、いまの東京と大きな違いがある。この小説の世界では大幅に地球温暖化が進んだ結果、経済が株式市場式から各国が排出する炭素に応じた税、炭素経済式に移り変わっている。そうした中でM7.5の地震が東京を襲い、都市再生計画によって「アトラス」という、何層もある都市からなる巨大な塔への市民の移住がなされた。だが、そこに移住できたのは富裕層や官僚などの限られた人間だけで、多くの東京都民は亜熱帯化し、疫病に怯えなければならない地上で暮らしている。ひどい格差社会である。 主人公は「アトラス」という限られた楽園とそれを作り出した政府への反抗組織「メタル・エイジ」を率いる若き総裁、北条國子だ。國子をはじめとして魅力的で個性的すぎるほどのキャラクターたちが登場し、臨場感あふれる戦闘を繰り広げたり、死んだと思ったキャラクターがなぜか生きていたりして、とにかくページをめくる手が止まらない。また、ゲランやエスティ・ローダー、ラ・ぺルラなど、われわれの住む世界に存在する高級ブランドの化粧品やランジェリーを登場人物が愛用していることがうかがえるのも現実世界と『シャングリ・ラ』の境界が曖昧になっている点だと感じた。一つの作品としてあまりにも演出過剰だと言われれば、それは否定できない。だが、その「過剰さ」こそが『シャングリ・ラ』の、ひいては池上永一の作品の醍醐味だと筆者は思うのだ。
 亜熱帯と化した地上で病気と隣り合わせで生きていくしかない人間の姿に、現実の面影を見てもおかしくはない。デベロッパーがなんとかヒルズなんて言いながら色んな建物を作り(六本木ヒルズは2003年開業、ただこのアトラスという巨大な塔は六本木ヒルズではなく他のものをモデルにしている。)、東京の街は発展し続けている。ついていけない者は置き去りにして。もしくは、最初からいなかったことになる。この小説で書かれた時代を感じるのは、M7.5という数字くらいかな。2011年3月以降とそれ以前ではやはり共有された物語が違いすぎる。特に東京中心主義がはびこる世の中では、池上自身は絶対にそうした東京ジャイアニズム(これ死語ですよね)には批判的だと思うが、東京にある出版社などのメディアが世に送り出すものには常に何らかの関東地方とそれ以外、みたいな空気があると思う。