「ごきげんよう」
 「ごきげんよう」
 さわやかな朝の挨拶が、澄みきった青空にこだまする。
 マリア様のお庭に集う乙女たちが、今日も天使のような無垢な笑顔で、背の高い門をくぐり抜けていく。
 汚れを知らない心身を包むのは、深い色の制服。
 スカートのプリーツは乱さないように、白いセーラーカラーは翻らせないように、ゆっくりと歩くのがここでのたしなみ。もちろん、遅刻ギリギリで走り去るなどといった、はしたない生徒など存在していようはずもない。
 私立リリアン女学園。
 明治三十四年創立のこの学園は、もとは華族の令嬢のためにつくられたという、伝統あるカトリック系お嬢様校である。
 東京都下。武蔵野の面影を未だに残している緑の多いこの地区で、神に見守られ、幼稚舎から大学までの一環教育が受けられる乙女の園。(「マリア様がみてる」今野緒雪,1998年5月10日,集英社コバルト文庫)

↑死んだらこれ墓標に刻んでください。それか戒名(??)にする。
 昔アニメは見ていたのだけど、きちんと読み直しているとなかなか来るものがある。
 紅薔薇さま(ロサ・キネンシスと読む)、白薔薇さま(ロサ・ギガンティア)、黄薔薇さま(ロサ・フェティダ)とか、何やら面倒な呼び名だなあと思いながら視聴していましたが、やっぱり本のほうが物語がきちんと理解できますね。アニメは、ランティスが関わっているからか片倉三起也が音楽にかかわっているので、耳慣れたメロディーが心地よかった覚えがあります。あと、小笠原祥子さまの声がいい。姫宮アンシーも落ち着いた話し方だけど、ああいう感じの声が好きなのかも。まさに高貴なお嬢様という感じです。
 アニメは尺の都合上、いろんなエピソードが削られていて、原作ファンが「これを映像で見たい」と思うであろうものを映像化して繋げているような感じがするんだよね。丁寧に作られているのはわかるけど。
 リリアン女学園にはスール制度というものがあり、紅薔薇さま(ロサ・キネンシス)の妹は紅薔薇のつぼみ(ロサ・キネンシス・アン・ブトゥン)と呼ばれ、いずれ次代の紅薔薇さまになるという(黄・白も同じく)制度があります。要するに彼女たちは生徒会なので、選挙で選ばれて正式に跡目を継ぐわけです。
 キラキラしたお嬢様のエスもの、百合ものといえばそう。
 でもリリアン女学園の実態は結構体育会系。お姉さまのいうことに絶対服従だし、姉と妹という関係や役割を引継ぎしていくというやり方も、ほぼ極道じゃないですか?! 反社のことよく知らないのでイメージで話してるけど……。いま37巻のうち3巻までしか読んでいないのですが2月か3月上旬までには全巻読破して、31巻の祥子さまの卒業まで味わうのが目標です。

 最近漫画をたくさん読んでいます! 「呪術廻戦」も13巻まで買えたし。でもなんか最近雑誌も売れてないんだろうなーというか少女漫画・少年漫画のあとに細分化していく好みに雑誌側がついていけてないのかなとか思ったりします。文芸誌はもっと売れてないわけだけど、少なくとも単行本になったり、作品として収められる場はある。ファッション誌とかも華やかでその紙面は時代を映し出しているし、資料価値はもちろんあるのだけど、抽出されて本になることはあまりないだろう。その辺りが厳しいわりに、製作コスト(金銭的にも、人的資源も)はめちゃくちゃ高いだろうし。
 とりあえず私は和山やまさんが「ワヤマ」として運営していた創作アカウントに載っている、「ライチ☆光クラブ」の二次創作とか、お耽美な感じの美少年美少女がメインのようなダーク作品を出して欲しいと思ってます。ほのぼの青春物もいいけどさ……。直接関係あるわけではないけど、自分の好きな作品たちをことさらにあげつらって「変態」として書かれていると悲しくなる。別にそうだと思ってないし、そこに第一のアイデンティティを置いてないんですが?! と思ってしまう。
 ここまで書いて気づいたけど和山先生にだって、他の作家にだって同じことですね。反省しました。

 東電OL殺人事件について知りたくて、「毒婦たち-東電OLと木嶋佳苗のあいだ-」(上野千鶴子、信田さよ子、北原みのりの鼎談をもとにした本。河出書房新社)と「東電OL症候群」(佐野眞一、新潮社)「グロテスク」(桐野夏生、文藝春秋)を読んだ。
 「毒婦たち~」のほうは、三者三様という感じで、あまり共感できない箇所もあったけどそれなりに面白く読んだ。北原みのりが、体を売り続けた被害者の行動に関して気持ちよくなければやってられないんじゃないかという意見を言っていた。
 146ページからの「リベンジのその先」という箇所なのだけど。

北原 私、侮蔑やリベンジについてはわかるんですけど、「自傷性」リベンジという説がわからない。私の感覚だと、気持ち良くなければ、逆にこんなことやってられないんじゃないかと思うんです。
上野 あなたならばね。
北原 あなたならって、何それ、ちょっと酷くないですか(笑)。何にも感じないで、何のために、ただのリベンジで東電OLは売春を続けられたんですか?
上野 その昔10代の売春が非行と呼ばれていた時代、アメリカの「思春期の性的逸脱」の例として牧師の娘がよく出てくるの。きちんとした良家の子女で、性的な行為を強く禁止され、価値のあるものとして求められてきた貞操に対して父親が与えた勝ちを、自らの意志でドブに捨てる。他の男に蹂躙させるわけよ。でもドブに捨てる行為は同時に、自分にとって気持ちのよい行為じゃないから、自傷でも自罰でもある。
信田 父から与えられたものって、あるんですかね。
上野 それはそうでしょう。娘は父の所有物だから。
信田 世間とか、むしろ母からっていうのもあると思う。
上野 父でも母でもいいんじゃないの。つまり世間の代理人なら誰でも。
北原 東電OLも性的に潔癖だったと言われていますよね。そんな人が売春するとどうなるんですか。
信田 性的な潔癖と性的な放縦って、両極端だからこそ簡単にどちらにも行きますよ。摂食障害の人は潔癖な場合
が多いんだけど、中には結婚しても夫とは全然セックスしない人もいっぱいいる。セックスしないでお人形のように夫に庇護されて、そういう自分は性的存在ではないとする人がいる一方で、お金をもらわずとも何人ともやりまくる人もいる。だから私にしてみれば、どちらも同じ。
上野 そうだと思うよ。社会は性を一方で禁止しておきながら、他方で特権的な価値を与える。裏表だから。男が与えた価値であるにもかかわらず、女が唯一男に対して、自分が価値あるものだと思えるのはその瞬間だけだから。若い女の子たちが「付き合っている」と言うときはもちろんセックスも込みの意味なんだけど、「やらせてあげてる」って言い方をする子が今でもいるのね。「やらせてあげている」って言うから「じゃあ、あなたは気持ちよいわけ?」って聞くと、「よくない」と帰ってくる。私はそんなのやめたらって言うんだけど、「やらせてあげてる」っていうことが関係のメンテナンスなわけよ。彼にとって価値のあることをしてあげて、彼にとって価値のある存在であり続けることで、関係が継続すると思っているんじゃない。
北原 私は性欲が強いからか(笑)、今上野さんがおっしゃったことにあんまりピンと来なくて。東電OLがあんなに長い間セックスを売り続けていたことに対して、あの当時は「東電OLは私だ」って言った女の人がいっぱいいたわけじゃないですか。その人たちは、社会に対して悔しさを感じて、東電OLの気持ちがわかる、共感するって女性たちだったんですよね。私が話を聞いてきた女の人たちは、「私も東電OLと同じように、すごくいっぱいいろんな男と、社会的に良くないと言われているセックスをいっぱいしてきた」と言うんですよ。その人たちが快楽以外の承認欲求とか自傷だけで、セックスをし続けたと思えなくて
上野 いちがいには言えないけど、東電OLの、本日の目標いくらとか、客を何人とるまで帰らないとかという業績主義のようなやり方や、あの価格設定の安さで、あなたの言ったお友だちのように、性欲が動機でやれると思う?
北原 もちろん、ただの性欲でやってたとは思わないんですけど、東電OLはそこに自由なものを感じてた部分はあったんじゃないかなって思うんです。
(p.146~p.148,『毒婦たち-東電OLと木嶋佳苗のあいだ-』より引用。ただし太字は筆者による)

 なんだかこのやり取りに衝撃をうけてまるまる引用してしまいました。北原の言っていることは私にはうなずけないのだけど、最後引用した一文を読んで、彼女が言いたかったのはそういう部分にも目を払えということなのかな、とは思った。
 殺された東電OLは、33歳ごろから殺される39歳まで、内幸町の東電から定時退社すると渋谷区円山町の街角に異様な風体で立ちんぼとしてたたずみ、絶対に4人客を取ってから、井の頭線の終電で永福町まで帰る生活を続けたそうだ。一種の開放感とか、今まで潔癖であった(世間体的には、潔癖であれとされる価値観)からか、それに中指を立てるような行為を続けるということに関して快感を見出すことはなくはないかもしれないけど、そもそも北原が投げかけた質問も肉体的な快感から生じた疑問のようなものにも見受けられるので、話で追い詰められて苦し紛れに投げかけた言葉なのかも。太字の部分も、「自分は東電OLだ」と言っている女性たちと実際に被害にあった東電OLは別の人なわけで、話がずれてしまっているような気がする。
 あと、快楽をともなうセックス(当人同士の同意に基づいたもの)が自傷になりつづけるのかという疑問も、ガチガチに縛られている人があえてそれをする、その中でも2000円とかでもやらせてあげるような極端な価格設定で行うというのは、相場からしたら非常に安いし、その程度の値段しかつかない自分とのセックス、ということをそのたびに確認して傷つきに行っているように思える。高いといっても2万円とかだったりするわけだけど、それにしたってその程度の値段でしかない。
 私は自傷をしたことがないのでわからないのですが、「承認欲求とか自傷だけで」という言葉にも同意できない。自傷はなんか、私も当事者じゃないので当て推量にしかならないんだけど、「そうすることによってやっと生きていける」ような行為なのではないか。生きている感覚が味わえないとか、離人症状や、自分という人格が壊れ続けている感覚に苛まれるのを、肉体の痛みで引き戻す動機で切ってしまう人だっているわけだし。十人十色なのでそれも一概には言えないけど。
 佐野眞一の「東電OL症候群」はまるで駄目。被害者を巫女として聖化している視点から事件を追うから、もうなんだかめちゃくちゃな感じ。でもたぶん本人は敬意を払っているつもりなんですよね。被害者の下の名前を連呼するのもなんだかなあと……。でも無罪を勝ち取って解放されたネパール人の方も呼び捨てだからそういうものなのかとも思うけど、あまり愉快ではなかった。
 「グロテスク」は、美醜と世間というものにとらわれている人間が描かれていて、面白くはあったけど、東電OL殺人事件に着想を得たフィクションなので、別のものだった。当たり前ですね。メインの語り手の性格が悪すぎて、早く終わってくれという気持ちになった。モデルになった慶應女子って本当にそこまで性格が悪いことをするのと訊きたくはなったけど、地方の中高一貫校ですらナイバー(内部生)と外部生の溝はかなりあったし、仲良くなった人は殆どいなかったことを考えれば、そういうものかな。文化資本って言葉はあまり好きじゃないんですが、豊かさに裏打ちされたおしゃれさとか美しさに弱い人は多いから。自分もそうではないと言い切れないし。

去年の3月に海外旅行してからまだ1年も経っていないのに変化がすごすぎて遠い未来に来てしまった感じがします。Pat Mcgrath Labsの化粧品をもっと買っておけばよかったと後悔しています。別に通販で買えるけど……。
Lookfantasticで注文したThe Ordinaryの商品がそろそろ届くはずだから、はやく使いたい。

「キングスマン:ファースト・エージェント」の公開が3月12日に予定されているらしいけど、もっと遅れそう。
全米公開が8月になったみたいなので、全世界同時公開にこだわるなら日本なんて延期されておかしくない。
しかしこれ3作目にしてウォルト・ディズニー・ジャパン配給になったと知り、それでは今までどこだったんだと調べたらまさかのKADOKAWAだった。
Wikipediaによると、日本の興行収入は9億8千万円だったんですね。
全世界だと4億ドルとからしい。
日本では意外と流行っていなかった。私は2作目の「キングスマン:ゴールデン・サークル」を観に行ったときに食べたものが悪かったのかものすごく気分が悪くなってエンドロールも見ずに出ていったことだけ覚えています。

まったく連絡がないのだけど、職場で受けたPCR検査は陰性だったっぽい。
でも検査が混み合っているので遅れます、とは言われているので、心の奥底のどこかで心配しているのだと思う。
「濃厚接触者になったので2月7日まで家から出ないでください」という内容の手紙が、なぜか宇多田ヒカルから届く夢を見ました。何やっててもまず頭に感染症のことしか浮かばないなんて悲しくなる。
しかし1930年代とか1940年代に10代、20代がかぶっていた人たちはさぞ辛かったことだろう。
非日常というものもいつしか日常になってしまうものなんだなあ。
というよりむしろ、日常やらなければならないこと(本当にそんなことがあるのかどうかは疑問だが)が強固すぎて、非常事態が起きたとしても結局は朝起きて仕事に行って家に帰り寝る、その繰り返しをなんとしても守るのだろう。
いきなり世界が滅びることなんてそうそう起きない。今日も明日も私は働くし、ご飯は食べるし、お風呂に入ってスキンケアして寝る。
エヴァだって世界が滅びる(?)までに26話と旧劇場版2本を尺に使ってますからね!

最近何も考えたくなくて、Netflixで「はたらく細胞」を一から視聴し直しているけど、シルヴィア・プラスの「ベル・ジャー」(青柳祐美子訳, 河出書房新社)も読み直した。多分3年くらい前に、大学近くに住んでいたころ読んだのですが、あまりにもつらすぎたのか内容を覚えていないのでもう一回借りました。
もともと邦訳されたときの題名が「自殺志願」(田中融二訳,角川書店)って。内容的には間違っていないかもしれないけど、それにしても、ベル・ジャーという題名になっているガラスの器具の意味合いが伝わらないだろう。
あとp.146の「伝染したストッキング」という単語、「伝線」の誤植ですかね? 重版かかってなければずっと修正はされてないのかな。
冒頭が最悪に気分を悪くさせるというか、語り手の自意識がよく伝わってくるもので、都会のキラキラした生活というものに倦んでいる人にとっては刺さるだろう。

(確かにあの夏、私は変だったと自分でも思う。頭の中を駆け巡っていたのは、ローゼンバーグ夫妻のことと、高いだけで着心地の悪い服をたくさん買いこんでは、死んだ魚みたいにだらりとクローゼットの中に吊るして喜んでいる自分のばかさ加減についてだったり、小さな成功、大学をずっと優等生で通しつづけてきたプライドが、マディソンアベニュー沿いのすべすべした大理石と大きなガラス張りの建物の前では、どうしてこんなにみすぼらしく映るのだろうというようなことばかりだった)
 本当なら人生を謳歌しているはずなのに。
 ランチの時間にブルーミングデールに立ち寄って買ったサイズ七の黒いエナメルの靴を履き、おそろいのベルトをし、おそろいのセカンドバッグを小脇に抱え、気が向けばいつでも颯爽とあちこちに旅をする――そんな生活を夢見る、かつての私みたいなアメリカ中の女子大生たちの羨望を、一身に受けているはずだった。
           (p.6-7「ベル・ジャー」シルヴィア・プラス、青柳祐美子訳 河出書房新社 2004年)

 私はタウン誌『ガゼット』の記者だったし、文芸誌の編集者もやっていたし、学業上そして社会上の違反や罰を決める生徒会の書記も務めていた。有名な女流詩人や学部の教授も応援してくれて、北部で一番優秀な大学院入学と卒業までの奨学金も手にしていた。そして今は知的で有名なファッション雑誌の一番優秀なエディターの元で修行だってしているというのに、私は、荷馬車の愚鈍な馬みたいに尻込みして立ち止まってばかりいる。
「本当に興味のあることばかりです」その言葉は木でできた五セントのコインのように、空虚で意味のない音をたててジェイ・シーの机の上に落ちた。
                                          (p.46 同上)

シルヴィア・プラスは自殺未遂を繰り返した結果、これが出版されたあとにガスオーブンに頭を突っ込んで自殺してしまった(享年30歳)。日本だとガスオーブンがある家自体少ないと思うのであまりピンとこないのだけど、ガスのホースをくわえるようなものなのだろうか。そもそもガスのホースを家で見たことがないかも……。
詩人の詩の良し悪しが私にはほとんどわからないので、アマンダ・ゴーマンのものも、シルヴィア・プラスのそれも、私にはまだ全然わからないです。「現代詩手帖」をめくってみても、なかなか。ちゃんと読めるようになりたいなあ。

「チェンソーマン」(著:藤本タツキ)を、単行本が出てる分は全部読んだ。
「妹の姉」の作者だからか、まあジャンプ編集部だからかはわからないけど、女体への執着がすごい。
まあでも女の先輩が主人公に対してゲロを吐きながらキスしたり、女キャラはとにかく主人公一味?を殺そうとしてきたり、頭がおかしいキャラクターしかいない。
なんか色々言いたいことはたくさんあるけど、一点、グロすぎた。
何がグロいかは色々あるんだけど、キャラクターの手足が飛ぶ、人が人を食べる描写があるとか、内蔵っぽいものが描かれているとか……。でもここまで書いて気づいたけど、「鬼滅の刃」だってかなりグロいんですよね。
人を食べるのは「鬼」だけど、「鬼」だって人間に近い姿を取っているものもあるので、見た目だけの問題なのか「鬼」として他者化しているからカニバリズムだとは思わないのか、とかぐるぐる考えてしまった。
基本的にこいつ文句しか言ってねーなって思われるかもしれないけど、実際そうなのでなんとも言えない。
しかし「呪術廻戦」だって相当ですよね。
5年くらい前の夏、ロンドンのAbercrombie&Fitchの店舗近くでバイクの単身事故か何かを見かけたことがある。
運転手はあまりひどいケガではなかったようで警察官と話をしていたけれど、小さめの血だまりと人間の一部だったっぽいもの(あまり見たくなかったので覚えていません)が落ちていた。
やっぱり急に衝撃的な場面に出くわすと見ないようにしてしまうし、過去に乗車していた電車が人を轢いた時も足がすくんでしまった。
漫画のキャラクターってすごいですよね。
自分は実際ビビりのくせにホラーとかゴア描写がある作品を喜んで摂取してしまう(そして後悔するまでがセット)の、一貫性がなくてしみじみダサいなあと思います。
日本っていろんなレーティングが緩いので、俺、グロいの大丈夫だけど、どうする?的な中二病患者が生まれるのを心配してます。
実際に目にしたときに向き合う覚悟が本当にありますか?
あるなら私の心配は杞憂だと思うので、そのままでいいんじゃないですかね。知らんけど……。

新文芸坐で「ウィッカーマン」(1973年版)を観てきた。
併映の「エレファントマン」は、長いのと同じ場所にとどまるのがためらわれて、2本立ての料金を払ってるのがもったいないけどパスしました。
イギリスの辺境サマーアイル島という場所に、行方不明の少女を捜索しに行く警察官が、その島の奇妙な風習に巻き込まれ、そしてクライマックスの五月祭へ……といった作品です。
全裸で交わる男女やら、男女別クラスで教えられる内容が生殖に関することだけとか、下ネタしか歌ってない島の住人とか、とにかく生理的に気持ち悪いです。なんというか、敬虔なクリスチャンである主人公がひたすらセクハラされているところを見せられるような。とにかく気の毒な話だった。
島の支配者であるサマーアイル卿を演じるクリストファー・リーが、まさに教祖といった感じで良かったです。
話は全く通じないんだけど、それっぽい人いそう感がすごい。
「ミッドサマー」の元ネタ、とか言われてますけど確かにオマージュはしていると思う。でもアリ・アスターの方はもっとひねってる感じがするかな。
極限状態に追い込まれた主人公が必死でそらんじる詩編23章に哀愁漂っていました。
この上映のテーマは「何にすがれば生きていけるのか」だそうで、まあ納得。

賛歌、ダビデの詩
主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。
主はわたしを青草の原に休ませ
憩いの水のほとりに伴い
魂を生き返らせてくださる。

主は御名にふさわしく
 わたしを正しい道へと導かれる。
死の陰の谷を行くときも
 わたしは災いを恐れない。
あなたがわたしと共にいてくださる。
あなたの鞭、あなたの杖
それがわたしを力づける。

わたしを苦しめる者を前にしても
あなたはわたしに食卓を整えてくださる。
わたしの頭に香油を注ぎ
わたしの杯を溢れさせてくださる。

命のある限り
恵みと慈しみはいつもわたしを追う。
主の家にわたしは帰り
生涯、そこにとどまるであろう。
                 (旧:詩編23章1節から6節、「聖書」新共同訳)

久々に詩編とか読んだけど、確かにこれは有名な箇所だ。
哲学・宗教学専攻だったのに結局文学系の卒論を書いたので、キリスト教からかなり遠ざかっていたけど、もっとちゃんと勉強しないとな。
オックスフォード大学出版会が出した”Feminism and Theology”という論文を集めた学術書があるんですが、それもなかなか面白いことが書いてあるので、ゆっくり紹介していきたいです。