東電OL殺人事件について知りたくて、「毒婦たち-東電OLと木嶋佳苗のあいだ-」(上野千鶴子、信田さよ子、北原みのりの鼎談をもとにした本。河出書房新社)と「東電OL症候群」(佐野眞一、新潮社)「グロテスク」(桐野夏生、文藝春秋)を読んだ。
 「毒婦たち~」のほうは、三者三様という感じで、あまり共感できない箇所もあったけどそれなりに面白く読んだ。北原みのりが、体を売り続けた被害者の行動に関して気持ちよくなければやってられないんじゃないかという意見を言っていた。
 146ページからの「リベンジのその先」という箇所なのだけど。

北原 私、侮蔑やリベンジについてはわかるんですけど、「自傷性」リベンジという説がわからない。私の感覚だと、気持ち良くなければ、逆にこんなことやってられないんじゃないかと思うんです。
上野 あなたならばね。
北原 あなたならって、何それ、ちょっと酷くないですか(笑)。何にも感じないで、何のために、ただのリベンジで東電OLは売春を続けられたんですか?
上野 その昔10代の売春が非行と呼ばれていた時代、アメリカの「思春期の性的逸脱」の例として牧師の娘がよく出てくるの。きちんとした良家の子女で、性的な行為を強く禁止され、価値のあるものとして求められてきた貞操に対して父親が与えた勝ちを、自らの意志でドブに捨てる。他の男に蹂躙させるわけよ。でもドブに捨てる行為は同時に、自分にとって気持ちのよい行為じゃないから、自傷でも自罰でもある。
信田 父から与えられたものって、あるんですかね。
上野 それはそうでしょう。娘は父の所有物だから。
信田 世間とか、むしろ母からっていうのもあると思う。
上野 父でも母でもいいんじゃないの。つまり世間の代理人なら誰でも。
北原 東電OLも性的に潔癖だったと言われていますよね。そんな人が売春するとどうなるんですか。
信田 性的な潔癖と性的な放縦って、両極端だからこそ簡単にどちらにも行きますよ。摂食障害の人は潔癖な場合
が多いんだけど、中には結婚しても夫とは全然セックスしない人もいっぱいいる。セックスしないでお人形のように夫に庇護されて、そういう自分は性的存在ではないとする人がいる一方で、お金をもらわずとも何人ともやりまくる人もいる。だから私にしてみれば、どちらも同じ。
上野 そうだと思うよ。社会は性を一方で禁止しておきながら、他方で特権的な価値を与える。裏表だから。男が与えた価値であるにもかかわらず、女が唯一男に対して、自分が価値あるものだと思えるのはその瞬間だけだから。若い女の子たちが「付き合っている」と言うときはもちろんセックスも込みの意味なんだけど、「やらせてあげてる」って言い方をする子が今でもいるのね。「やらせてあげている」って言うから「じゃあ、あなたは気持ちよいわけ?」って聞くと、「よくない」と帰ってくる。私はそんなのやめたらって言うんだけど、「やらせてあげてる」っていうことが関係のメンテナンスなわけよ。彼にとって価値のあることをしてあげて、彼にとって価値のある存在であり続けることで、関係が継続すると思っているんじゃない。
北原 私は性欲が強いからか(笑)、今上野さんがおっしゃったことにあんまりピンと来なくて。東電OLがあんなに長い間セックスを売り続けていたことに対して、あの当時は「東電OLは私だ」って言った女の人がいっぱいいたわけじゃないですか。その人たちは、社会に対して悔しさを感じて、東電OLの気持ちがわかる、共感するって女性たちだったんですよね。私が話を聞いてきた女の人たちは、「私も東電OLと同じように、すごくいっぱいいろんな男と、社会的に良くないと言われているセックスをいっぱいしてきた」と言うんですよ。その人たちが快楽以外の承認欲求とか自傷だけで、セックスをし続けたと思えなくて
上野 いちがいには言えないけど、東電OLの、本日の目標いくらとか、客を何人とるまで帰らないとかという業績主義のようなやり方や、あの価格設定の安さで、あなたの言ったお友だちのように、性欲が動機でやれると思う?
北原 もちろん、ただの性欲でやってたとは思わないんですけど、東電OLはそこに自由なものを感じてた部分はあったんじゃないかなって思うんです。
(p.146~p.148,『毒婦たち-東電OLと木嶋佳苗のあいだ-』より引用。ただし太字は筆者による)

 なんだかこのやり取りに衝撃をうけてまるまる引用してしまいました。北原の言っていることは私にはうなずけないのだけど、最後引用した一文を読んで、彼女が言いたかったのはそういう部分にも目を払えということなのかな、とは思った。
 殺された東電OLは、33歳ごろから殺される39歳まで、内幸町の東電から定時退社すると渋谷区円山町の街角に異様な風体で立ちんぼとしてたたずみ、絶対に4人客を取ってから、井の頭線の終電で永福町まで帰る生活を続けたそうだ。一種の開放感とか、今まで潔癖であった(世間体的には、潔癖であれとされる価値観)からか、それに中指を立てるような行為を続けるということに関して快感を見出すことはなくはないかもしれないけど、そもそも北原が投げかけた質問も肉体的な快感から生じた疑問のようなものにも見受けられるので、話で追い詰められて苦し紛れに投げかけた言葉なのかも。太字の部分も、「自分は東電OLだ」と言っている女性たちと実際に被害にあった東電OLは別の人なわけで、話がずれてしまっているような気がする。
 あと、快楽をともなうセックス(当人同士の同意に基づいたもの)が自傷になりつづけるのかという疑問も、ガチガチに縛られている人があえてそれをする、その中でも2000円とかでもやらせてあげるような極端な価格設定で行うというのは、相場からしたら非常に安いし、その程度の値段しかつかない自分とのセックス、ということをそのたびに確認して傷つきに行っているように思える。高いといっても2万円とかだったりするわけだけど、それにしたってその程度の値段でしかない。
 私は自傷をしたことがないのでわからないのですが、「承認欲求とか自傷だけで」という言葉にも同意できない。自傷はなんか、私も当事者じゃないので当て推量にしかならないんだけど、「そうすることによってやっと生きていける」ような行為なのではないか。生きている感覚が味わえないとか、離人症状や、自分という人格が壊れ続けている感覚に苛まれるのを、肉体の痛みで引き戻す動機で切ってしまう人だっているわけだし。十人十色なのでそれも一概には言えないけど。
 佐野眞一の「東電OL症候群」はまるで駄目。被害者を巫女として聖化している視点から事件を追うから、もうなんだかめちゃくちゃな感じ。でもたぶん本人は敬意を払っているつもりなんですよね。被害者の下の名前を連呼するのもなんだかなあと……。でも無罪を勝ち取って解放されたネパール人の方も呼び捨てだからそういうものなのかとも思うけど、あまり愉快ではなかった。
 「グロテスク」は、美醜と世間というものにとらわれている人間が描かれていて、面白くはあったけど、東電OL殺人事件に着想を得たフィクションなので、別のものだった。当たり前ですね。メインの語り手の性格が悪すぎて、早く終わってくれという気持ちになった。モデルになった慶應女子って本当にそこまで性格が悪いことをするのと訊きたくはなったけど、地方の中高一貫校ですらナイバー(内部生)と外部生の溝はかなりあったし、仲良くなった人は殆どいなかったことを考えれば、そういうものかな。文化資本って言葉はあまり好きじゃないんですが、豊かさに裏打ちされたおしゃれさとか美しさに弱い人は多いから。自分もそうではないと言い切れないし。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA