『氷の海のガレオン』―木地雅映子著。私はポプラ文庫ピュアフルから出たもので読んだ。
「自らを天才だと信じて疑わないひとりのむすめがありました。斉木杉子。十一歳。――わたしのことです。」この小説の冒頭部分のインパクトに読者は心を奪われるに違いない。主人公の少女である杉子は周りとは少し変わった女の子で、読書が好き。母親は詩人、父親は何をやっているかわからないけれどフラフラしている。家庭調査票には一応会社員と記入をするものの、毛筆で大きく書くユーモアセンスの持ち主だ。杉子には兄がふたりいて、彼らも杉子同様、学校という場でははみ出た存在である。
このブログの読者の皆さんは小学校在学時のクラスメイトと話を楽しめる子供だっただろうか。筆者は身体が弱くまた運動も得意でないためいつも教室で本を読んでいた。そもそもこれらの小説が「大人ぶっている」と書くこと自体が今現在非常に恥ずかしいのだけれども、小学校4,5年生のころに江國香織(「じゃこじゃこのビスケット」って言葉がむやみに記憶に残っている)など読んだり、6年生には『春琴抄』をはじめとする谷崎潤一郎の著作や、江戸川乱歩の『陰獣』、丸尾末広の『少女椿』、ねこぢる、太田出版から出ていた「マンガ・エロティクスF」、古屋兎丸などのサブカル系の漫画にまで手を出したりした、かなり小生意気な子供だった。そんな子供が、大阪市のかなり治安が悪い場所の公立小学校の子供と話が合うはずがない(私立の小学校でもかなり難しいことは理解している)。
今思えば、「自分の好きなものの話しかできないで、周りの人とコミュニケーションが取れないのは、どうしようもない甘ったれだからだ」と思う。過去の自分は子供じみた自尊心と肥大化した承認欲求を抱えて「どうして誰もわかってくれないの」と他人を拒否するだけだった。
そんなどうしようもない子供だった私は、「私はあいつらとは違う」という、選民意識で疎外されている自分を正当化しようとした。『氷の海のガレオン』の杉子もまた、学校で浮いている自分の立場を、強がってはいるものの不安にはなる。当然のことだ、まだ11歳なのだ。「自分は天才だから他の子となじめないんだ。でもそうじゃないのかもしれなくて本当に自分がおかしいのかもしれない」という気持ちを抱えながら杉子の気持ちは揺れる。ストーリーの中で杉子には理解ある大人である音楽の先生や、まりかちゃんという杉子と同じようにクラスから疎外されている子が登場し、小学校のクラス内の小さな人間関係に揺れ動く杉子が鮮やかに描かれている。読書好きだった子供時代を過ごした人には刺さるものがあるだろう。
そして、この物語にはもう一人の主人公がいる。杉子の母である。杉子は作中に明記されていないものの、発達障害をもつ子供として設定されているらしく、そうした子をもつ親の苦悩が、杉子が母親の行動を描写する場面で伝わってくる。杉子に共感した子供たちが大人になって読み返したとき、母親が普通とは違う子供を育てる際の苦悩と我が子への愛を持ち合わせていることに気づくことができる。そうした意味でもかなり巧みな作品だ。いわゆる児童向け小説であるが、文体が平易なだけで内容は多くの人の心に共感を呼ぶ作品だと思う。あなたもきっとあの頃の自分の気持ちを思い出せるはず。

(この記事は大学時代のサークル活動で使用した文章の再掲です。著作者は私です。)

朝山蜻一という作家は、あまり有名ではない。彼は作家としてのキャリアの長さの割には寡作で、この本に集められている16篇だけでほとんどの作品は網羅されていると言っても過言ではない。平たく言ってしまえばこの本は変態小説のくくりに入れられるような内容であり、さまざまな性的倒錯者が登場するミステリー小説でもある。こう説明をすると本当に意味が分からないが、みなさんも一度お読みになってみればこう説明するほかないと理解できるはずだ。二階堂奥歯のブログで2001年7月だか、最初のほうにも紹介されているので有名じゃないだろうか? 早速一文目と矛盾しているように思うけれども。
 それでは一体どのような作品が収められているのかというと、表題作でもある「白昼艶夢」は極端にくびれた腰をもつ女体を愛する芸術家とその恋人の話で、恋人はコルセットを着用して腰をくびれさせてついには死んでしまうという話である。「ひつじや物語」という作品は、たくさんの飲み屋が立ち並ぶ場所で、羊との性交専門の風俗店がオープンして人気を博すといったところからストーリーが展開していく。また「巫女」という作品は謎の新興宗教集団の教団の幹部であるサディストの男(作中ではそのように呼ばれているわけではないのだが、常軌を逸した責めばかり行うので便宜上ここではこう表現する)によって虐待されて育った巫女と、その男との壮絶な愛の記録といった風情である。ほかには、ラバーが好きな夫婦の愛の行方や、ダッチワイフ好きによって作られた究極の人形の話とか、枚挙にいとまがない。そんな、たぶんいわゆる普通の人は「引く」作品ばかりなのだが、筆者はたまらなく好きだ。
 ここまで書いているとけなしているのかちょっとよくわからなくなってきたが、この作品たちは変態小説な点だけが魅力なのではなく、読みやすいのだが決して砕けているわけではない文体や、起承転結を予測させない展開で読者を飽きさせることがないところも魅力的な本なのだ。筆者のお気に入りの文章は「虫のように殺す」という作品(ゴキブリが嫌いな男が衝動的に女を殺してしまう話)のなかの「他人とは何だ。それは網膜のほんの一部の画像ではないか。しかも最も好ましくない」という箇所である。なんだか嫌な人ばかりの世の中も、この言葉と共に生きていける気さえするのだ。

St Lucy’s Home for Girls Raised by Wolves by Karen Russell
It was very lucky for me to be able to read this short story while I was abroad, which made me think more than just being a stranger. This short story suggest us that the adaptation of social norm are arbitrarily made or constructed by dominant culture.
I was thinking that this title was a kind of metaphor, but actually, this story depicts the process of adaptation for human beings from wolves. It is a science fiction story and it was written in a way that causes universal feeling to readers’ mind. The girls were trained by the external environment and they have been modified irreversibly. The narrator (Claudette) and other girls struggle the training for human beings. That process takes 5 stages, then the story follows each stage to show the difference from being wolves. To consider the title literary, this story represents some sort of evolution (I don’t think that human beings hold a higher position in a hierarchy than wolves, but I could not figure it out which word is appropriate for the change of girls’ behaviors), then the girls are adapted to the “better” life of human beings. Personally, I feel all of the environment in the US is “St.Lucy’s home” and “the nans.” I do not think the US is better than Japan and vice versa. However, to live in a foreign country, it is challenging for me to imitate the appropriate behavior and life of the US. The use of cutlery, the custom of the tip, etc. Many little factors make a major difference. In the last paragraph, the narrator tells a first “human lie” to parents by saying “I’m home.” As I mentioned above, girls have been trained in St.Lucy’s home step by step taking 5 stages and they become humanized. Their transitions were implied in various way such as awkward English when they translate wolves’ language
and the attitude to “strange” girl Mirabella while the narrator also changes her mindset and gradually become “girl” than “wolf.” However, in my opinion, Mirabella should be admired because she adheres her custom and she resists the enforced “evolution.”

この3か月あったこと。
・次の仕事が決まったので前職(秘書という名のなんでも屋)を辞めた
・前職が日本語が話せない上司のもとで英語を使う仕事だったので現在あまり勉強できていない(言い訳でしかない)ので学習習慣を復活させたい
・あんなに望んで入った業界でもどうしようもない人間はたくさんいるということを知った(むしろどうしようもない人間だから目指すのか?)。
・友達といつも通り楽しく過ごした
・詩歌に触れる機会が増え、全然知らなかったことを覚え始めた
・結局人間関係が一番面倒なので外注したいと思っている
・誰とも一緒にいることができないanti-socialな性格が年々悪化

 関西人の描写についていろいろ思うことがあるというか、「方言キャラ」というものの登場の仕方は、標準語とされる言葉を話す地域にむけて書かれたものなんだろうと思うことがある。多くの場合「関西弁キャラ」はストレンジャーであり、転校生であり、他と違う特徴をもるキャラクターである。そうしたキャラクターとして描かれる作品を見るたび、自分たちが話す言語が方言と呼ばれ、関東弁だらけのキャラクターの中で際立ってみえるのねと考えてしまう。女児向けアニメでいえば『おジャ魔女どれみシリーズ』の妹尾あいこ(関西弁を話し、両親は離婚している)が真っ先に思い浮かぶ。『名探偵コナン』の服部平次は「西の」高校生探偵として名をはせ、『あずまんが大王』の春日歩に至っては「大阪さん」というあだ名兼キャラクター名で呼ばれる。(彼女は神戸と和歌山で育ったにもかかわらず、とりあえず大阪さんと呼ばれている)「ポケットモンスター 金・銀」のコガネシティにはアカネというジムリーダーがいて大阪弁のような方言を話す。
 なんというか、スタンダードが東京近郊で話される言葉で、それ以外のアクセントで話す人は「他者」だということが物語の中で当然のように展開していることに無自覚である(あり続けることができる)人は本当に幸せだということです。