※この記事は2017年11月に当時通っていた大学の学内新聞に掲載したコラムに加筆・修正を加えたものです。著者はブログの管理人です。

 『О嬢の物語』という性愛小説は、1954年ジャン=ジャック・ポーヴェール書店より刊行された。作者はポーリーヌ・レアージュという女性(後に、ドミニック・オーリーという作家が変名で発表したことがわかった)。1955年にはドゥ・マゴ賞を受賞した。大まかなあらすじとしては、主人公のファッション関係のフォトグラファーである主人公、О(オー)が愛する恋人のルネに「ロワッシーの館」に連れて行かれる。そこでОは、男たちから徹底的な調教を受ける。Oは恋人のルネに服従した上で自分の身体が他の男に蹂躙されることを通じて、ルネとの精神的な繋がりを感じて喜びに打ち震える。館からの帰還後もルネはOに対して下着を身につけることを禁じるなどの精神的拘束を強いるが、Oはそうした要請に応えることによってルネへの愛を確信していく。あるとき、ルネは知り合いのステファン卿という男性をOに紹介する。ステファン卿とルネの二人でOを共有して、より調教のステップアップをしていくためである。共有といっても、調教の主導権はルネからステファン卿に移り、Oはステファン卿を次第に愛するようになっていく。以後の展開はここでは省略させていただくが、最終的にOはステファン卿の完全な奴隷になる。Oはステファン卿の望みの絶対性に従うことで、もはや神への愛を捧げる修道女のような高潔さもある。Oの臀部には「S」の焼印が押されている。脱毛された性器には鉄の輪とそれに連なった鎖が付けられ、頭にふくろうを模したマスクを被って、ステファン卿の奴隷として夜会に出席する。もちろん、Oは仮面と鎖以外は何も身に着けていない。Oの強烈な姿は、周囲の人々には完全なオブジェとして映り、Oは完全な”客体”となる。
 さて、この作品は女性差別に満ち満ちた、社会が要請する女性のジェンダーロールの、マゾヒスティックな面に過剰に適応した性愛小説だろうか。男の都合のいい妄想を投影し、女性を被虐的な存在として描く最低な作品だろうか。私は、Oはむしろ自発的に奴隷になること、誰かに完全に所有されること、そうした精神的な悦びが重要だと捉えているように感じられたし、ステファン卿もルネも強引な暴力は使用していないのだ。だから、この小説はその性描写のスキャンダラスな面よりも、Oの心の中で、彼らから支配されていると実感することによって生じている精神的な快感が重要と考えている。ただ、私は精神的支配を恋人関係にある人間からされることが手放しに素晴らしいと言うつもりはないと付け加えておく。また、Oが女性で、ルネとステファン卿が男性のキャラクターであるという事実がどのようにストーリー展開と読者の理解に影響を与えているのかはきちんと考えなければならないと思う。
 もう1つここで覚えておきたい本がある。アンドレア・ドウォーキン(アメリカの法哲学者・ノンフィクション作家・ラディカル・フェミニスト活動家)による著作、『ポルノグラフィ 女を所有する男たち』(寺沢みづほ訳、青土社より出版)である。オリジナルは1981年に書かれたものの、日本語訳が出版されたのは1998年とかなり遅い。この本は、男女問わず自分が当然のことだと受け入れていたことの枠組みを外すような本なのでかなりショッキングだし、ちょっとそれは言い過ぎではないだろうかと突っ込みたくなる部分も多々ある。しかしそうした突っ込みたくなる感覚は今までの自分の生育環境や社会の構造によって培われたものなのではなかろうか、という自分自身への疑問を向けるきっかけになる。ドウォーキンがこの本で求めているのは、「本物の変革、男を女より優越させる社会的権力に終止符を打つこと」である。彼女は次のように主張する。「彼は誰なのか。彼は何を欲しているのか。…(中略)…彼はどのように物としてのあなたと性交し、消費しているのか、またそれがなぜかくも不快感をかきたて、かくも女を傷つけることになるのか。何が彼をあなたより上位に留めさせているのか。なぜ彼はあなたの上から断じてどこうとしないのか」。そして、ポルノグラフィについては、男が女を取引する年商百億ドルのビジネスをファンタジーとして美化して、権力を持つものが持たざるもの、他の人間を食いつぶしていると強烈に批判する。また、女性がポルノグラフィに対して感じる恐怖感、についても鮮やかに暴き出す。例えば生身の人間を用いて残虐行為を記録する権力そのもの、究極的には男が権力を持ちポルノを作りそこから利益を得ようとすること、何億という男がポルノを楽しむことそのものへの嫌悪感を持っていることや、普段は人権を擁護する男たちがポルノを女への攻撃として理解することなく弁護していること。それらの全てが女性のポルノグラフィに対する抵抗感を一層つのらせる点を指摘している。また、ドウォーキンは『O嬢の物語』について英語で短い書評を書いており、そのに「O」という名前自体が、完全な空虚さを象徴するアルファベット1文字によって設定されていることを通して、女性の客体化を理想化したものだと痛烈に批判していた。
 『O嬢の物語』も『ポルノグラフィ 女を所有する男たち』も女性による著作である。前者は性愛小説、後者はフェミニズムの本だ。男性の権力が肯定された社会の欲望のなかで生み出された作品を楽しむ私は、その価値観を心に内包して生きており、もう穢されているのだろうか。そうした疑問が自分の中に浮かんでは消えていく。どのような作品でも、テンプレートのように女性が殺されたりひどい目にあったりする描写が存在する作品を楽しむ私と、女性の人権を尊重し、女性を低い位置に置こうとするものへ対抗する姿勢はどちらも私の中に存在している。両者は矛盾しているように思われるかもしれないし、私にはまだそれらの矛盾へのきちんとした解決策を見いだせてはいないのだが、一生向き合っていきたいテーマである。 

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