本好きにあまり理解されないとわかっているのですが、物体としての本とか稀覯本にあまり興味が持てません。
資料として大切なので、保存・調査が重要なのはわかるのですが、集めようとは思わない。
内容がどうしても読みたいと思って、図書館にもないレアな本を探すことはある。
紙や美しい装丁そのものよりも、言葉だけがあればある内容を指し示すことができることのほうがよっぽど魔法じみていると思うからです。
論文とか、ちゃんとした引用だと、出版物の名前とそれが書かれているページと著者、出版社、出版年を示さないといけないと思うけど、それは証拠として示さないといけないからなのでしょうがないと思う。
たとえば「いづれの御時にか、女御、更衣あまた候ひ給ひける中に、いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて 時めき給ふありけり。」と言えば源氏物語の「桐壺」だとわかる。俳句や短歌のようなものだと、句集、歌集はあれどもやっぱり作品それ自体の独立性みたいなものがもっと感じやすいのではないか。
加賀野千代女の「朝顔につるべ取られてもらい水」とか、正岡子規の「くれなゐの二尺伸びたる薔薇の芽の針やはらかに春雨の降る」とか、もうそれだけでいいというか、まあ収録されている本は大切なんだけど、それを口に出して相手と共有すれば、誰のどの作品かわかることのほうがいいと思う。極端だけど、どこにこれらの作品が初出なのかとか、どのノートに書いてあるかとか知っている人なんて研究者くらいしかいないだろう。二階堂奥歯の日記に牧野修の「MOUSE」について書いてあるものがあったのだけど、そこで引用されているシーンがまさに、といった感じ。
以下、日記からまるごと引用。よくないですね。

「(前略)それじゃ始めるよ……月」
「月の光り」
「爪」
「爪で掻く金属の皮膚」
「剣、剣の上」
「剣の上に乗る裸足の脚の先」
(中略)
「裸足の人形の土で出来た十二匹の鼠」
「青く塗られた人形の前にひざまづき歌う十二人の水兵」
「水兵の青く塗られた唇に挟まれた薄荷煙草の……」
「煙草の先の炎に眼をつけ世界を見る柔らかな少年……」
「少年の海は疲れた魚の群に頭をつけて……」
(中略)
「頭から剥がれ落ちた魚の群に身を投げる女王の……」
「女王のトランプをくすねた歪んだ頭のイギリス人の尻を蹴飛ばし……」
「走るイギリス人の脚に」
「走るイギリス人の脚にもたれた眼のない兎の」
「眼のない兎の走る脚に」
「眼のない兎の走る脚に」
 二人は同時に唱和し始めた。
「帰らないことを前提とした故郷に棲む兎の、眼のない兎の、月、剣、爪。シーラカンス、ブーゲンビリア」
(牧野修『MOUSE』ハヤカワ文庫)

常にドラッグを体内に摂取し続けている17歳以下の子供たち(マウス)が住む、廃棄された埋め立て地、「ネバーランド」。
全員が常にそれぞれの幻覚を見続け、「客観的現実」がないそこでの攻撃とは、言葉によって相手の見ている幻覚(=現実=世界)を変化させ屈服させることである。
そしてそこではまた、誰かと同じものを見るにはお互いの主観を重複させなければならない。引用したのはそのために自動筆記のように連想を重ね、意識を同調させていく儀式。あまりに美しいので丸ごと書いてしまいました。
世界は言葉でできているということを、「ひとつのリアリティ」を持って描いた優れて詩的な作品ではないでしょうか。(『八本脚の蝶』二階堂奥歯、2002年1月19日(土)の日記より引用。「MOUSE」の部分、孫引きすみません!)

いま生きている現実の話で言えば、ある種のミームと化しているシーンなんかもそうか。同じ作品の話をするときに「あなたには世界を革命するしかないでしょう」(少女革命ウテナ)とか、「笑えばいいと思うよ」(新世紀エヴァンゲリオン)、「やっぱり神様なんていなかったね」(いつか降る雪)、「このカシオミニを賭けてもいい」(「動物のお医者さん」だけど、ほんとは「エロイカより愛をこめて」のジェイムズ君が元ネタ)、「おらあトキだ!」(ガラスの仮面)とか……。枚挙にいとまがない。例がアニメ・漫画しかないのかよって感じですけど。
言葉そのものとはずれたけど、それだけで同じものを想起することができる例だと言わせてください。

「痛みますか」「いいえ、あなただから、あなただから」みたいな美しいやりとりは頭から離れませんね。
しかし執刀医が好きだという気持ちだけで外科手術の痛みは耐えられないでしょう。

「明日、私は誰かのカノジョ」読みたさにサイコミのアプリを入れたのだけど、課金以外で漫画を読むためのコインを取得する方法が、よくわからないサイトに登録しなければならないっていうのはちょっと微妙だなと思った。
ご丁寧に退会の仕組みまで案内してくれているけれど、意味不明なサービスに情報を握られることのデメリットのほうが大きくないかと思って登録はやめた。
noteとかああいうサービスもそうだけど、「読む」ことに数百円払い、単行本は手に入らないシステムのほうがよっぽど儲かりそう。でもそういうわけでもないのかなと思ったり……。自分自身は1話読むために60円払う(しかも7日間しか読めない)ことにいまいち納得がいかないので使わないようにしようと思います。
漫画のストリーミングサービス、もうちょっとマシにならないかな?
まあもともと雑誌派と単行本派との間には埋めがたい差があるとは思うけど……。

「市松サンのように美しい面輪も、恒夫には物珍しかった。大学のキャンパスで見る女の子たちはみな、すこやかな雌虎のようにたけだけしく、セクシュアルだったが、ジョゼには性の匂いはなく、旧家の蔵から盗み出してきた古い人形を運んでいるような気が、恒夫にはした。そんな彼女には、高圧的な物言いがぴったりだった。」(「ジョゼと虎と魚たち」、田辺聖子、角川文庫)
しかしそんなジョゼが茶髪の萌えキャラ(死語か?)としてアニメ映画になっていることに不満が隠せません。
お金は払いたくないので、行きません。行ってから文句を言えという話かもしれませんが、あまり角川のメディアミックスのやり方とかコミックエッセイ部門がとりあえずTwitter作家の本を出すだけみたいな感じになっているのもなりふり構わなすぎてつらいのです。原作枯渇しているわけでもなさそうなのに、あえて池脇千鶴がやった映画がありながらアニメにする意味はあまりわかりません。
そもそもああいう美少女の造形が、情緒のかけらもないように感じるし、恒夫のキャラデザも涙しか出ません。
どちらかといえば、冒頭引用した箇所に示されているようにジョゼは市松人形のよう、と作中何度も繰り返されている。ジョゼはふざけてではあるものの恒夫を「管理人」と呼び、関係を結んでも普通の彼氏彼女という呼び方はしていない。
どちらかといえば、「春琴抄」の佐助と春琴の間に漂う微妙な官能の空気みたいなものをまとう作品なんだけど。
いろんな男がいても結局林作との「甘い蜜の部屋」に何度も戻ってしまうモイラみたいな感じもする。
ジョゼはこうも思っている。
「魚のような恒夫とジョゼの姿に、ジョゼは深い満足のためいきを洩らす。恒夫はいつジョゼから去るかわからないが、傍にいる限りは幸福で、それでいいとジョゼは思う。そしてジョゼは幸福を考えるとき、それは死と同義語に思える。完全無欠な幸福は、死そのものだった。(アタイたちはお魚や。「死んだモン」になった――)と思うとき、ジョゼは(我々は幸福だ)といってるつもりだった。」(同上)

コミカライズも、アニメ化したものも、水族館にいる魚たちと、幸せな二人の姿に死の匂いを漂わせてはいけないのだろうか。

そういえば落窪物語を題材にした「舞え舞え蝸牛」は作者の古典籍の教養の深みを感じられるので、「おちくぼ姫」のあとはそれを読んでみるといいと思います。
なんかほんと自分は頭が悪いんですけど、国語の造詣が深いってすごいですよね。俵万智も国語の先生だったし。
熟語だけ難しいものを使っても、それを使う文章がしっかりしていなければ、そういう難しい言葉は上滑りするだけになってしまうから、「ちゃんとした」文を書けるってすごいことだと思いますね。
俵万智なんかはライトヴァースの旗手ですけど、彼女も源氏や「みだれ髪」をチョコレート語訳と称して我々にわかりやすく解説しつつ「うた」にする技量を持っているので、なかなか真似できるものではない。

アニメ「ぼくらの」を見ていたら、作中、怪獣が出現する並行世界の地球では「緊急事態宣言」のテロップが踊っていた。
品川区周辺に出現したので近隣住民の皆さんは避難してくださいとアナウンサーが言っていた。
しかし現実はもっとひどいというか、自分自身も感覚が麻痺していると思った。
都市が危機に襲われるといえば、「シン・ゴジラ」ってオタクが考えるつよい日本って感じでげんなりしていたんですけど、実際ゴジラが来たら人々は団結するのでしょうか?
というか、被害の規模が(まだ)違うか。あれは内閣が全滅したり都内の死亡者・行方不明者の総数が360万人だったりしたみたいだし。東京都の人口が920万人くらいとしたら、大体4割は死んでいる計算になる。,
見に行きたいホラー映画がたくさんあるけど、どうしようもないので、Blu-rayでもまとめて観ることにするか。