※この記事は2017年11月に当時通っていた大学の学内新聞に掲載したコラムに加筆・修正を加えたものです。著者はブログの管理人です。

 『О嬢の物語』という性愛小説は、1954年ジャン=ジャック・ポーヴェール書店より刊行された。作者はポーリーヌ・レアージュという女性(後に、ドミニック・オーリーという作家が変名で発表したことがわかった)。1955年にはドゥ・マゴ賞を受賞した。大まかなあらすじとしては、主人公のファッション関係のフォトグラファーである主人公、О(オー)が愛する恋人のルネに「ロワッシーの館」に連れて行かれる。そこでОは、男たちから徹底的な調教を受ける。Oは恋人のルネに服従した上で自分の身体が他の男に蹂躙されることを通じて、ルネとの精神的な繋がりを感じて喜びに打ち震える。館からの帰還後もルネはOに対して下着を身につけることを禁じるなどの精神的拘束を強いるが、Oはそうした要請に応えることによってルネへの愛を確信していく。あるとき、ルネは知り合いのステファン卿という男性をOに紹介する。ステファン卿とルネの二人でOを共有して、より調教のステップアップをしていくためである。共有といっても、調教の主導権はルネからステファン卿に移り、Oはステファン卿を次第に愛するようになっていく。以後の展開はここでは省略させていただくが、最終的にOはステファン卿の完全な奴隷になる。Oはステファン卿の望みの絶対性に従うことで、もはや神への愛を捧げる修道女のような高潔さもある。Oの臀部には「S」の焼印が押されている。脱毛された性器には鉄の輪とそれに連なった鎖が付けられ、頭にふくろうを模したマスクを被って、ステファン卿の奴隷として夜会に出席する。もちろん、Oは仮面と鎖以外は何も身に着けていない。Oの強烈な姿は、周囲の人々には完全なオブジェとして映り、Oは完全な”客体”となる。
 さて、この作品は女性差別に満ち満ちた、社会が要請する女性のジェンダーロールの、マゾヒスティックな面に過剰に適応した性愛小説だろうか。男の都合のいい妄想を投影し、女性を被虐的な存在として描く最低な作品だろうか。私は、Oはむしろ自発的に奴隷になること、誰かに完全に所有されること、そうした精神的な悦びが重要だと捉えているように感じられたし、ステファン卿もルネも強引な暴力は使用していないのだ。だから、この小説はその性描写のスキャンダラスな面よりも、Oの心の中で、彼らから支配されていると実感することによって生じている精神的な快感が重要と考えている。ただ、私は精神的支配を恋人関係にある人間からされることが手放しに素晴らしいと言うつもりはないと付け加えておく。また、Oが女性で、ルネとステファン卿が男性のキャラクターであるという事実がどのようにストーリー展開と読者の理解に影響を与えているのかはきちんと考えなければならないと思う。
 もう1つここで覚えておきたい本がある。アンドレア・ドウォーキン(アメリカの法哲学者・ノンフィクション作家・ラディカル・フェミニスト活動家)による著作、『ポルノグラフィ 女を所有する男たち』(寺沢みづほ訳、青土社より出版)である。オリジナルは1981年に書かれたものの、日本語訳が出版されたのは1998年とかなり遅い。この本は、男女問わず自分が当然のことだと受け入れていたことの枠組みを外すような本なのでかなりショッキングだし、ちょっとそれは言い過ぎではないだろうかと突っ込みたくなる部分も多々ある。しかしそうした突っ込みたくなる感覚は今までの自分の生育環境や社会の構造によって培われたものなのではなかろうか、という自分自身への疑問を向けるきっかけになる。ドウォーキンがこの本で求めているのは、「本物の変革、男を女より優越させる社会的権力に終止符を打つこと」である。彼女は次のように主張する。「彼は誰なのか。彼は何を欲しているのか。…(中略)…彼はどのように物としてのあなたと性交し、消費しているのか、またそれがなぜかくも不快感をかきたて、かくも女を傷つけることになるのか。何が彼をあなたより上位に留めさせているのか。なぜ彼はあなたの上から断じてどこうとしないのか」。そして、ポルノグラフィについては、男が女を取引する年商百億ドルのビジネスをファンタジーとして美化して、権力を持つものが持たざるもの、他の人間を食いつぶしていると強烈に批判する。また、女性がポルノグラフィに対して感じる恐怖感、についても鮮やかに暴き出す。例えば生身の人間を用いて残虐行為を記録する権力そのもの、究極的には男が権力を持ちポルノを作りそこから利益を得ようとすること、何億という男がポルノを楽しむことそのものへの嫌悪感を持っていることや、普段は人権を擁護する男たちがポルノを女への攻撃として理解することなく弁護していること。それらの全てが女性のポルノグラフィに対する抵抗感を一層つのらせる点を指摘している。また、ドウォーキンは『O嬢の物語』について英語で短い書評を書いており、そのに「O」という名前自体が、完全な空虚さを象徴するアルファベット1文字によって設定されていることを通して、女性の客体化を理想化したものだと痛烈に批判していた。
 『O嬢の物語』も『ポルノグラフィ 女を所有する男たち』も女性による著作である。前者は性愛小説、後者はフェミニズムの本だ。男性の権力が肯定された社会の欲望のなかで生み出された作品を楽しむ私は、その価値観を心に内包して生きており、もう穢されているのだろうか。そうした疑問が自分の中に浮かんでは消えていく。どのような作品でも、テンプレートのように女性が殺されたりひどい目にあったりする描写が存在する作品を楽しむ私と、女性の人権を尊重し、女性を低い位置に置こうとするものへ対抗する姿勢はどちらも私の中に存在している。両者は矛盾しているように思われるかもしれないし、私にはまだそれらの矛盾へのきちんとした解決策を見いだせてはいないのだが、一生向き合っていきたいテーマである。 

 迷宮事件ファイルを見ました。Amazon primeビデオやHuluに入ってるんだけど、法医学的証拠を元に20年以上たった後でも犯人が逮捕できるということを証明してみせてる感じ。まあ、冒頭にこれは解決できたけどとても稀なケースです、という風に但し書きはついています。こういうのを見ていると自分含めて人間は人の死や事件を見世物にして楽しんでいるというか他人の不幸に対して「お可哀想に」と言いながら、家族と夕ご飯を食べる程度の図太さを持ち合わせているんだなー。
 最近Instagramでは@mrs_angemi(サムネイルだけでも超超超超閲覧注意なので見ない方がいい)みたいな人気のある解剖学やケガの治療や屍体の写真がてんこ盛りなんですけど、195万人のフォロワーを抱えていて公式バッジまでもらっています。非常に教育的?な内容で、月額制オンラインサロンでは会員に向けて「Instagramに載せるには刺激的すぎる」ケースの写真が載っているらしいです。高いし見る勇気がないので登録は見送った。インターネットで検索してはいけない言葉なんて言っている間にこういう商売が生まれるんだからすごい時代だ。よく考えれば現実は常に無修正なので血も剝き出しの色んなものもいつ見たっておかしくないんだけど。

去年授業で提出したレポートを短く構成し直したものです。問題があったら消します。先生ごめんなさい。でも自分が書いたものだからいいのかな。

逆説的ではあるが、人形という存在は、人間が造り出したものであるにもかかわらず、人間の理想とされる形を決めてしまうほど影響力をもつことがある。現在は改善されつつあるが、マテル社は、彼らが作ったバービー人形は画一的な美の基準をバービー人形で遊ぶ女児たちに押し付けていると批判されたことがあるし、日本のファッション雑誌『LARME(ラルム)』などでは、「ドールフェイス」なモデルがもてはやされている(中村理砂、黒瀧まりあ、菅野結以などが看板モデルで、彼女らは例外なく明るい色に染めた髪をセットし、カラーコンタクトとつけまつげを着用し、PINK HOUSE のような服を着せられている)。そうした状況下で、自らを「ドールモデル」と称し、いわゆる「ゴシック・ドール」のような造形の被り物を身につけ、球体関節人形の関節をプリントしたボディストッキングを着用する「人間」がいる。彼女は橋本ルルという名前で、2016 年夏頃からモデルとして活動しており、2018 年度のミス iD に出場して「ぼっちが、世界を変える。賞」を受賞した。その後、国内外でモデルとして活躍している。橋本ルルのボディストッキングと被り物(以下「コスチューム」と記述する)を着用する人は公にされていない。ただ、特定の一人が常に橋本ルルとして活動しているわけではなく、その時々に応じて「コスチューム」を着用するモデルは変わるそうだ。橋本ルルは「人形になりたいなんて、ロマンチックすぎる、諦念めいた夢だった。私が現れるまでは。日本・原宿発、アーティスト。人形になりたい人々が作り上げた、着る魔法です。」(公式ホームページより引用)と掲げているが、筆者はむしろその橋本ルルという存在の空虚さに注目したい。「着る魔法」という言葉と矛盾するようだが、橋本ルルはミス iD 2018 の最終発表の場での出来事について、Twitter 上でこうも発言している。「最終発表の場でまで「人間じゃない」と言われて本当に悔しかった。だからマイクに叫びました。伝わりましたか。生きてるよ。3:42 AM – 3 Nov 2017」( @luludoll より引用)確かにここでは橋本ルルは「生きてるよ。」と言っただけで、で橋本ルルは「人間じゃない」と言われたことに対して「私は人間です」とはっきり言ったわけではない。詳しくは後述するが、このツイートだけでなく橋本ルルの行動や言動には不可解さが付きまとい、およそ一貫性が存在しているとは言い難いものである。このレポートでは、橋本ルルのプロデューサーであるmillna、被り物作成ユニットであるぬこパン、ボディストッキングのペイントを主に行う上野航の三組によって作り出された橋本ルルという「ドールモデル」について分析を行う。主に、橋本ルル以前の人形になりたがる人々と橋本ルルの関係、そして橋本ルル自身のツイートや、millnaによる橋本ルルについての発言、その他橋本ルルについてのニュース記事やコメントが主な分析対象となる。

「人形」になりたがる人々と橋本ルル


人間が人形の真似事をする行為自体はさほど珍しいものではない。フランス人形や、バービーやケンになりたいと言って整形手術を行う人々が現実に存在している。そして、人形になりたがる人間と、その記録は残っている。ピエール・モリニエというシュルレアリストは、彼が作り出した「女性」の幻想を再現するために絵だけでなく自分がその変装をして写真作品を作るようになった。

モリニエは自分自身の夢の女性を再現している。彼が作品を通して作り出した極端に性的な存在としての「女性」はおよそ現実の女性を人間として尊重する意思は感じられないし、それは金型にはめて大量生産される着せ替え人形のようである。それこそまるで人形かのように、モリニエの芸術のなかの女性たちの身体は改造され、切断され、撮影される。モリニエはシュルレアリストであり芸術家として「自分自身」が再現したい「女性」のイメージを再現した人形になり、自分自身が自分自身の作品になった。橋本ルルの場合はmillna を含む 3 組によって作り上げられたイメージであるし、言動や行動にまるで一貫性がないので、プロデューサーである彼らがどのように統一された「女性」や「人形」のイメージを持っているのかはっきりしない。モリニエの場合のように、彼一人でプロデュースした彼自身を素材とした人形ではない点も、橋本ルルをとらえどころのない存在にする理由の一つであるかもしれない。モリニエは 1976 年に拳銃自殺を遂げている。橋本ルルが登場する 2016 年以前から、自分自身ではない身体になりたいという欲望はそこかしこに潜んでいて、橋本ルルが表現しているものは、特に新規性はないのではないだろうか。授業内プレゼンテーションで筆者は「美少女キャラクター」の着ぐるみやスーパードルフィーや恋月姫、天野可淡による球体関節人形について紹介したが、橋本ルルはそれらの既存のイメージを継ぎ接ぎして「人形のような姿形をした」人間を具現化しているのではないだろうか。「可愛くなりたい」というメッセージを発信するイラストを書いていた millna と、球体関節人形のようなペイントを施したストッキングを販売していた上野航、着ぐるみ製作サークルのぬこパンらが協力して橋本ルルを具現化させたわけだが、橋本ルルの「コスチューム」を着ている人間が誰なのか明らかにされていないことは、橋本ルルの存在や切実さをぼやけさせる大きな理由だろう。要するに、既に世の中に存在していた欲望を体現する、都合の良い「ドールモデル」としての橋本ルルが三人の手によって誕生させられてしまったというわけだ。「一切の決定権をもたない無垢な客体こそが美しい。それは、主体であることに疲れ、物のように即自化したいと願う人間の密かな願望を体現してくれるのだから。」(金森修『人形論』 p.133)とあるように、自身の客体化という欲望もそこにはあるだろう。皮肉にも橋本ルル自身が、三人によって作られた傀儡(=人形)のような存在なのではないか。橋本ルルを構成するモチベーションとしての欲望は、「お人形さんのような可愛い女の子になりたい」といったファッション雑誌における欲望、「人形を所有したい」ドールマニアの欲望、「人造人間を作り上げたい」といったサイエンス・フィクションの欲望など、枚挙にいとまがない。

橋本ルルはミス iD2018のプロフィール上で、こうも言っている。「きっと人形の延長線上というよりは、人間とメイクやファッションの延長線上。ドールスーツまでをファッションに含めたファッションモデル。ファッションは憧れの向こう側に連れて行ってくれる、こんな風に、直アクセスで。」(ミス iD 2018橋本ルルのプロフィールより引用。https://miss-id.jp/nominee/5362)科学技術の発展などではなく、既存のアイデアとイメージを組み合わせ、アナログな「コスチューム」を着るという行為によってではある。しかし、複雑なテクノロジーでもなく誰でも簡単に着脱できて痛みを伴うことのない変身を可能にする橋本ルルの「コスチューム」は、「人形になりたい」といった欲望が生み出した徒花のような存在であろう。「人間という有機体」に縛られていることを抜本的に変えてしまい、皮膚を貼り変え」る橋本ルル。「コスチューム」によって軽々と人間と人形の境目を超えているようにも思われるが、はたしてそこに橋本ルルという人格は存在しているのだろうか? 橋本ルルは、いったい誰なんだろうか? 橋本ルルは、人間の欲望を再現するために作られた「コスチューム」による、単なる集金装置なのではないか? 身体を改変する際の痛みを嘲笑うかのように、「コスチューム」という鮮やかな手口で「人間とメイクやファッションの延長線上」にアクセス可能にした、橋本ルルは世間の注目を集めることに成功し続けている。彼女が傀儡だとしても、消費するわれわれにとってはその方が都合が良いのだ。

橋本ルルの言動


前述の通り、橋本ルルは 2016 年の夏頃から活動している。具体的な日付としては、彼女は 2016年 7 月 11 日がデビューだそうだ。橋本ルル名義の Twitter で投稿し、初めて彼女のビデオを投稿した日だ。彼女自身のプロフィールは、公式ホームページにはこうある。

人形になりたいなんて、ロマンチックすぎる、諦念めいた夢だった。私が現れるまでは。日本・原宿発、アーティスト。人形になりたい人々が作り上げた、着る魔法です。
Ht / Shoes 160cm / 24.5cm 適合サイズ 9AR 9 号・M サイズ (ただし、自由に変わります)
(公式ホームページ「Profile」より引用 http://www.luluidoll.jp/)

彼女は「人形になりたい人々が作り上げた、着る魔法」と紹介されている。公式ホームページでの橋本ルルは、モデルとしての活動のために適合サイズについても記述されている。ただし、自由に着用サイズが変更できるという注釈付きではあるが。橋本ルルというパーソナリティを紹介しているというよりも、橋本ルルをイベントに出演させたいとか、モデルとして起用したい方面に向けた説明に近いだろう。プロデューサーの小林司と講談社らによって開催されているミスコンのミス iD2018 では、自己紹介 PR として、公式ホームページのプロフィールより詳しい「人格」としての橋本ルルがフィーチャーされている。

橋本ルルは、います。可愛くなりたい女の子達が生み出した可愛い怨霊です。/・ドールスーツを身に纏う普通の女の子/・原宿から現れたファッションモデル/・きっと人形の延長線上と
いうよりは、人間とメイクやファッションの延長線上。ドールスーツまでをファッションに含めたファッションモデル。ファッションは憧れの向こう側に連れて行ってくれる、こんな風に、直アクセスで。/・誰もがきっと心の底に持っている、本当は着たい可愛い服みたいなもの。可愛く生きたかった私たちのイメージの体現で、一種の集合知で、個人というよりイメージで、実体としての彼女はイメージのデフォルメキャラクターなんだと思う。「可愛くなりたい」自体の。/・普通の私たちが少しずつ持っている普通じゃない瞬間、嵌め込んで一人にしよう/・「人形になりたい」なんて、ロマンチックすぎてウケる、諦念めいた夢だった。私が現れるまでは。/将来の夢:美しくなりたい チャームポイント:瞳の十字星……(中略)……特技:バレエ(踊れるときは)/好きな本:安部公房「他人の顔」/「これだけは人に負けない!」というもの:美/ 落ち着くと思う場所:ランドリー
(ミス iD 2018 「橋本ルルプロフィール」https://miss-id.jp/nominee/5362 より引用)

ここでも橋本ルルは、あくまで「可愛く生きたかった私たちのイメージの体現で、一種の集合知で、個人というよりイメージで、実体としての彼女はイメージのデフォルメキャラクターなんだと思う。」 と言い、橋本ルルという実体をぼやけさせる。このプロフィールにはプロデューサーたちの意図が働いていることは確かだろう。 「好きな本:安部公房「他人の顔」」といった悪ふざけのような「設定」も橋本ルルを一種メタ的な視点から捉えて、プロフィールを読んでいる人々の眼前へと突きつける戦略ではないだろうか。
さて、橋本ルルはいくつかのインタビューでも彼女自身のプロフィールでも、彼女のポリシーを表現する言葉として「ファッション」という言葉を頻繫に使用している。「ファッションは憧れの向こう側に連れて行ってくれる」とか、「単に、『お化粧やオシャレをしてかわいくなりたい』という感情の延長線にいるのが私だと思うんです。『かわいくなりたい。じゃあ、着ちゃえ』っていうことだから。橋本ルルの根底にある“かわいくなりたい”という感情は、元から同じ趣味の人だけでなく、どんなカルチャーが好きな人でも分かるかもしれないものじゃないでしょうか。今の反響は、私が初めてドール着ぐるみに出会ったときのように、橋本ルルを見て『これは私にとっての理想だ』と感じてくれた人が多かったということなのかもしれません」(原田イチボによるインタビューより引用 https://trendnews.yahoo.co.jp/archives/530174/)など。そして、前述のミス iD でのプロフィールの、「落ち着くと思う場所:ランドリー」という言葉は示唆的だ。橋本ルルは橋本ルルの「 コスチューム」を脱ぎ捨てることができる場所が「 落ち着くと思う」のだそうだ。 「ファッション」の延長線上にいる彼女は、結局のところ裸体(=人間の姿)に戻ることができる場所で落ち着くのだそうだ。ここに、橋本ルルをプロデュースした人々の思惑が見える。結局のところ、不可逆的な改変をする気も、「可愛くなりたい」という気持ちを再現す
るために、文字通り「身をもって」表現しようとする意志も存在しない。あるのは「コスチューム」だけだ。それは、バーチャルユーチューバーや、着せ替え可能なゲームのアバター、画像修正し放題のファッションフォトと変わらない、安全な範囲での「 遊び」のような行為に過ぎない。橋本ルルのクリエイターmillna は MMN インタビューにおいて、「モデルとして人間を超えてしまうのではないか」と質問され、こう答えている。

それはないと思います。人間のモデルにしかできない仕事、人形にしかできない仕事がある
ので。むしろ、できる表現の幅が広がったのではないかと思います。例えば、人間にしかできない表現の一つが「呼吸感」です。人間をどれほど完璧にメイクアップしても人間としての呼吸感は残るので、カジュアル感を強く押し出す撮影であれば人間のモデルが有利になると思います。逆に、例えば「可愛くなりたい」のきらめきや、完璧な美、アーティスティックな表現を望む撮影などでは人形のモデルがこれまでになかった全く新しい表現を開拓するのではないでしょうか。ウィッグやカラコンを着けた状態で自然になるよう顔立ちやメイクが仕上がっているので人間では難しいカラーへも自由に変えられますし、身長やプロポーションなどもシュチュエーションに合わせて変えられるようにし、あえて縛らないことにしています。人間の枠にとらわれない自由な表現ができると思います。
(2016.8 MMN インタビュー(原田イチボ https://www.moshimoshinippon.jp/ja/18367/2 より引用)

ここで millna が指す「呼吸感」が何を指しているのかははっきりしないが、アーティスティックな撮影や人間の枠にとらわれない身体表現がしたいのであれば、現実に存在するモデルたちを撮影した写真をいくらでも Photoshop で修正できる昨今、橋本ルルにしかできない表現は存在しないのではないか。現に、橋本ルルというキャラクターは「コスチューム」を脱ぎ捨てられる場所が安心できる場所だと言っているのにもかかわらず、橋本ルルの中にいる、コスチュームを脱ぎ捨てた人間は「特定の誰か」ではないうえ、脱げば橋本ルルではなくなってしまう。橋本ルルは「コスチューム」なしに存在することができない「ドールモデル」という存在であるが、人形のような「完璧な美」を再現するために、結局のところ人間が橋本ルルの「コスチューム」をまるでパペットかのように動かさなければならない。『人形メディア学講義』で菊池は着ぐるみは全身で動かすパペットだと述べているが、まさに橋本ルルもそうした存在にすぎないのではないだろうか。橋本ルルは話せない(という設定)ので、インタビューに答えているのはプロデューサーである millna であり、橋本ルルのプロフィールもほぼプロデューサーたちが考えたものだろう。そして、最も重要な点として橋本ルルは「コスチューム」で「ファッション」だということについて、椹木野衣によるファッションと身体改変についての文章を引用したい。

ファッションが安全なのは、それがつねに出発点としての裸体に戻ることのできるゲームの
遊戯性において可能となっており、これに対して入れ墨やピアシングのリアルさは、程度の差こそあれ、それがファッションの可逆的なゲームへと参加する権利としての裸体そのものに墨を打ち、穴を開け、焼きごてをあて、金属を埋め込むからであり、オリジナルとしての身体に対して脱着可能なモードとしての衣服がコピーを展開する前者とはまったく異なる、ある絶対的なオリジナル性の消去がそこでは企てられているのである。……(中略)……
ボディ・ビルダーたちが、結局のところはイデアとしての肉体の理想にどれだけ近づきえていないかによって、逆説的だがその劣性(コピー)の度合いを評価されるのに対して、そのような起源には目もくれず、そうしたイデアに頼ることなく、むしろ身体に対する攻撃や破壊によって身体を唯一単独のものへと仕立てあげようとする入れ墨やピアシングをほどこされた身体こそは、われわれがすでに描写した魂の住居としての身体にほかならないからだ。
(1996.8 魂(椹木野衣)「原子心母―芸術における「心霊」の研究」 河出書房新社 p.128)

椹木が指摘する「魂の住居」としての身体を橋本ルルに存在させることはできない。なぜなら橋本ルルを橋本ルルたらしめているのはその特異な「コスチューム」であり、いつでも脱ぎ捨てられるものだからだ。そして橋本ルルは「集合知」であり、「可愛くなりたい」という願望を体現する存在にすぎず、橋本ルル自身に人間性が発生してはならないのだ。したがって、橋本ルルの「中の人」の匿名性は維持され続けるし、今後も明らかにされることはないだろう。橋本ルルの座右の銘は、雑誌『小悪魔 ageha』から引用した「生まれたときからかわいかったら、今のあたしはいなかった」 (2017.11 【インタビュー】ドール着ぐるみ初のファッションモデル・橋本ルル 、 「 人 形 」 に な っ た 理 由 明 か す ( ト レ ン ド ニ ュ ー ス )https://trendnews.yahoo.co.jp/archives/530174/より)だそうだが、一体誰が生まれたときなのだろうか。このインタビューでは橋本ルルの「中の人」はまるで一人であるかのように表記されているが、バレエを踊ることができる人が「コスチューム」を着ているときや、それ以外のときについて特に発言していない。もちろんインタビュアーから質問されていない以上橋本ルルが語る必要はなかったのかもしれないが、今までのプロフィールでの記述やインタビューでの露出の方法を鑑みると、フェアでないように見受けられる。橋本ルルが発言する内容は常にコントロールされ、(橋本ルルに限った話でないにせよ)マネージャーのような存在であるプロデューサーから「発言していいこと」を決められている。そこには橋本ルル自身の身体も、「可愛くなりたい」と切実に願う人間性も存在せず、消費者である我々の眼前には「 ドールモデル」としての操り人形である橋本ルルが誕生するのだ。

ZARAとJo Lovesのコラボ香水を買いました。店頭に90mlしか残っていなかったのでちょっとなーと思ったけど買ったのはこの2つ。
・Tubereuse Noir 
イランイラン、チューベローズ、サンダルウッドとなっているけど、”The single note of tubereuse is more commanding than diamonds.”と箱に書いてある通りで、多少変化はあれどずっと花の香りがする。花言葉は「危険な快楽」だそうで(誰が決めたのか?)、夏場の夜中によく似合うと思う。食事の場には向かない。食欲が失せるのでダイエットに良いかもしれない。
・Fleur De Patchouli ピオニー、パチョリ、ユソウボク(グアヤクウッド)。ピオニーって精油がないとか聞いた気がする。Jo Malone Londonのピオニーアンドブラッシュスエードを持ってるけど、こちらのほうがパチョリがある分甘ったるく重い。日本の夏には絶対につけられない。可愛らしいピオニーが欲しいならDiorのHoly Peonyを買ったほうがいい。どういう仕組みなのか知らないけどユソウボクの精油には催淫効果があるらしい。
Jo Malone氏プロデュースだからか、使える香料に限りがあるからか、あまり奥行きがなく軽い印象は否めない。よく言えばすっきりしていてコンバイニングにはいいのかな。今後もシリーズで出るらしいので新作に期待。